清掃活動、条里ではない田んぼ〔6688〕2021/08/07
2021年8月7日(土)曇り
今朝は清掃活動の土曜日。会社のご近所のゴミを拾って歩いてます。が、暑い。おひさまギンギン。しかも、昨日降っちゅうので、蒸せる。暑い。で、新聞によると今日は「立秋」。ああ。早くも残暑お見舞い申し上げます、だ。残暑か。残暑だろうが暑中だろうが、暑いものは、暑い。そして暑いと飲料が売れるので、業界的には良い季節。
そうそう。高知では当たり前やけど、この立秋時期になると、稲刈りが済んだ田んぼが多くなります。会社の近くでもこの通り。向こうに会社、見えてます。昨日雨が降ったので、刈った後の田んぼが濡れて、美しいね。稲刈り後の田んぼは、炊き立てご飯の香りがして、好き。
南国市物部。物部氏にゆかりある、上岡八幡宮が氏神様。物部郷という名称は平安の頃から存在するのは確認できてるけども、もっと古くから物部氏が住んだ土地。恐らくは律令時代から。
物部川が物部川になったのは、土佐藩五代藩主山内豊房のときから、とのこと。それまでは「鏡川」という名前やったけども、高知の城下の潮江川を「鏡川」と呼ぶようにしたので、こちらの鏡川を物部川と呼ぶようにしたとのこと。いや、これ、ウィキに書いてる話なので真偽の程は不明。
ただ、香美郡、とか言われるように、鏡川と呼ばれてたのは間違いない、物部川。
律令時代に、物部氏の係累が住み着いたのだとすると。
律令時代、土佐では、官道が整備されつつ所謂「香長条里」と今では呼ばれる条里制が施かれて、今でも地図で見たら一目瞭然の大規模な田んぼの区画整理が行われてます。もちろん収税の為ね。班田収授の。
で。この写真の界隈。というか、弊社の界隈はというと、条里になってません。少し西へ行くとキチンとした条里が見えるけど、ここは違います。この写真のように、条里ではない田んぼ。
これは、この地形分類図で見たらわかるように、物部川の流路が入り組んだ場所だったからと想像できます。ひょっとしたらその頃は川中島だったかも知れない。
物部郷は、旧三島村とされてるから、現在の南国市物部、久枝、下島。物部川右岸。地形分類図見ても、田んぼ作るのに適してたようには、見えません。そんな場所に物部氏の係累が住み着いた理由って、何だったんだろうね。
そうそう。そもそも物部川が今の流路に固定したのは野中兼山が上岡山の西側を掘り割って、川がまっすぐ南流するようにしたからで、それまでの流れは、もっと西でした。まさしく、こんな感じで川があったとすれば、物部郷はしょっちゅう川の氾濫があった場所ということに、なります。そんな場所に上岡山と室岡山という二つの標高30mくらいの山があった訳で、普段は神の山、洪水時は命の山として、物部氏にも大切にされてきたのでしょう。この話、飽きたかな?
今は流路も固定され、変形やけど豊かな農地が広がる物部。はやく新米食べたいぞよ。