種崎半島の成り立ち〔6686〕2021/08/05
2021年8月5日(木)晴れ!
夏晴れ。
今朝は、用事があって種崎へ来てます。少し早めにやって来て、千松公園でこのにっこり、書いてます。こないだから桂浜のこと書いてるので、今朝は対岸の種崎の話。
この写真は、浦戸大橋の、種崎側の橋脚を下から見上げたもの。この場所。ストリートビューで見ると、ここ。東日本大震災の後、耐震工事が行われて、少し感じが変わりました。
橋脚に掲げられてるのは、浦戸大橋が架かる以前の風景写真。完成したのが昭和47年だから、それ以前の風景ね。架橋前、浦戸の母の実家に泊まりにきた僕らは、浦戸と種崎を結ぶ小さなポンポン船に乗って、種崎へ泳ぎにきたりしてました。高知の海水浴のメッカ、種崎へ。
今年はコロナの影響で、種崎は海水浴場やってません。誰も泳いでません。夏の種崎で、誰も泳いでないという僕らにとっては不思議な光景が、見られます。
種崎半島はどのようにしてできたのか。はい。今朝は地学ですね。
でね。幾度も書いてきたように、今から2万年前、地球はヴュルム氷期で、海水面が今より120mくらいは低かったとされます。海水は極地で氷になってしまうので。浦戸湾は、山に囲まれた峡谷で、四国山地から流れてきた川水は、今より100m以上低かった浦戸湾口から太平洋へ流れ出ておったのであります。その頃、種崎半島は存在してません。
その後、氷期が終わって温暖化が進むと同時に海水面が上昇、川が運んでくる土砂が堆積していって、今の高知市の平野や浦戸湾の海底が形成されてきた訳です。その時、地形が動いた。
手元に、1990年、高知市文化振興事業団発行の、上森千秋さんという高知大学名誉教授が著した「流れと波の科学」という名著があります。この本では、波と陸地形成のメカニズムがよくわかって、楽しい。
高知の太平洋岸は、概ね、西から東へと海流が流れてます。その波は、四国山地から川が運んできた砂も、一緒に東へと、流す。
海の流れは、桂浜の半島の竜頭岬に当たると、半島の後ろ側へ回り込むような流れが発生するのであります。上森先生の文章では、こう、
「漂砂移動がかなり激しく、かつ卓越する波向がある長汀に、防波堤のような障害物を出すと、沿岸漂砂が阻止され、構造物の漂砂上流側は堆砂し浜勾配を急にし、一方下流は侵食され前浜勾配を緩くする。漂砂が多くこの突出部を回り込むようになると、まずその先端に堆砂をつくり、これがだんだん発達して陸上に姿を見せた砂州となる。これが段々に伸びて嘴状になるとサンドスピット(砂嘴)となる。
そう。浦戸桂浜の半島を回り込んだ漂砂が、嘴状に砂州を形成したのが、種崎半島なのだ。鳥取県の弓ヶ浜なんかが、大規模で、典型的なサンドスピット。京都の天橋立も、そう。なんとも、自然の力って、すごい。
そういうメカニズムでできあがった種崎半島は、砂嘴。固い地盤は、2万年前に湾口であった、100m以上の地下まで存在しない、砂嘴。地理院地図の「地形分類」で確認できます。
だから、この橋脚は、固い地盤に立てられていないのであります。そんな深くまで基礎を打てないから。で、どうしてるかと言うと、大きなケーソンを横置きに埋めて、それに、この橋脚を立ててるんだそうです。耐震工事前の橋脚には、そんな構造を描いた図が掲げられてたと記憶するけど、今は、見当たりませんねー。
種崎。砂嘴。2万年かけて、100m以上堆積してきてできた砂嘴は、高知で一番賑わった海水浴場やったけど、今は昔。
桂浜や種崎などにある防波堤、堤防などは、単に波を防ぐだけのものではなく、船の航行などに支障が出ないように砂をコントロールする為のものでもあり、自然と人類の鬩ぎ合いの痕跡でもあるのでした。大自然の力って、僕らが思ってるよりも、遥かにすごいのでありますのだ。関係者の皆さん、本当にご苦労様です。