竪穴式住居と神奈備山〔6656〕2021/07/06
2021年7月6日(火)薄曇り
蒸せます。湿度が高いので、朝起きるとお肌がベトベトしてて、夏を感じるこの季節。夜明け前の風景には靄がかかって少し幻想的。暑いけど。
ここは、高知空港滑走路の北西端、やよい広場の展望台。展望台の上から空港の管制塔方面を撮影しました。幾度も書くように、ここには弥生時代数百年を通じて、ずうっと、大きな集落が存在したと言われてます。田村遺跡の、弥生集落。出土した竪穴式住居の数では他の地域の遺跡を圧倒する規模。
ここには、たくさんの竪穴式住居が並んでおりました。
そこで暮らした人々の心性に迫ってみよう。
住んだのは、物部川の自然堤防上。微高地。扇状地に網の目のように流れる物部川の水を利用して、水田などを耕作していた弥生人。いや、縄文末期から集落は存在したようなので、漁撈にも勤しんでいたと思われます。貝塚がないのは何故なんだろう。
で、この写真の管制塔の向こうには、室岡山。標高は30mに足らんけど、こっから見ると大和の三輪山に似た形状の神奈備山型だったと思われます。目を少し左に転じると、その室岡山と対になるように上岡山。これも神奈備山型。
平野の中にぽっかり浮かぶ双子のような神奈備山に、ここに住んだ人たちが神を見なかった訳がない、と想像する訳です。そんな神を見ながら、竪穴式住居で暮らすひとたち。
弥生末期に、ここからは集落が消えてゆきます。古墳時代になると、集落はもっと北や東に移動していきました。国分寺から比江にかけて、たくさんの竪穴式住居跡が見つかっているのは、そこに集落が移動していったことを示しています。竪穴式住居が無くなった訳ではなくて。
そう。竪穴式住居は、とてもよくできた建物で、西日本でも平安後期まで利用されていた形式。東北地方では室町時代まで使われてたと言うから、皆さん想像してるよりもずっと最近まで、日本人は竪穴式住居で暮らしておったのでありますね。最近の研究では、江戸時代に使われてた例も見つかってるそう。だって、よくできてたから。竪穴式住居。
でもまあ、夏は暑かったろうねー。蒸せたろうし。涼しい東北地方で遅くまで竪穴式住居が使われてたのは、そんなところにも理由があったのかなかったのかは、知らんけど。
で、藁葺きの典型的農家の家屋、想像してみてください。炉やかまどの切り方、間仕切りのない大部屋での大家族での生活、などなど。竪穴式住居から引き継がれた文化なのではないか。いや、たぶん、そうだ。
と、考えると、居酒屋の炉端焼きは、そのルーツは縄文時代の竪穴式住居とも言えましょう。知らんけど。
2000年前のここでは、この時間、竪穴式の家々の炉端から、朝の煙が立ち上っていたのでしょうか。それを見守る、室岡山と上岡山、神奈備山の神様。
そんな風景を妄想しつつ、一日が始まります。さあ、仕事仕事!