山内家、山内荘、丸三葉柏紋の妄想〔6647〕2021/06/27
2021年6月27日(日)雨
日曜の朝。雨はしっかり降ってます。昨夜は、桂浜で「浦戸湾・桂浜フォーラム」というのがあって、出かけてました。もちろんコロナ対策ギンギンで。
地元浦戸の方々も多くいらっしゃって、県議や市議も。そして土佐史談会2トップの、浦戸、桂浜の歴史的価値など、素敵な話がたくさん聞けて、楽しゅうございましたです。やはりみんな、浦戸のあの素敵な町並と桂浜観光が結びつくことを期待してます。そこに、僕のこんな思いも伝えてきました。
史談会の宅間会長が、浦戸の城下町の発掘調査について言及されてて、目から鱗でしたねー。浦戸の町も高齢化、過疎化が進み、空き家も増えました。そんな、人が居なくなった場所で、埋蔵文化財などの発掘調査をして欲しい、という宅間先生のお話。すごい。それはすごいと思います。
城下町が存在したのは間違いないので、戦国期の、もしかしたら中世に遡る、貴重なものが出てくるかも、知れません。城下町がどんな風景だったのか、再現できるかも知れない。
そういった発掘調査の成果などを合わせて浦戸の歴史を再構築し、歴史を活かした町並復元と、桂浜観光を統合していく。そのための、九反田からの海上交通。などなど、妄想はどんどん膨らんでゆくのでした。
今朝は、会社。雨の日曜日。静かに仕事、してます。
一昨日、土佐山内家の家紋やルーツのことなど、書きました。遡ると山内首藤家で、鎌倉の「山内荘」から出た、という話ね。その「山内」は、その土地の山に囲まれた地形からきた姓なのかも知れない、というこれまた妄想。
で、その地形を、今一度見てみました。地理院地図の「色別標高図」。
「山内」は、北鎌倉から大船、戸塚界隈と言います。箱根駅伝(往路)で、権太坂を越えて下った辺り。この地形見てみると、なんか、氾濫平野が三つ柏に見えました。いや、偶然です。でも、ここの氾濫平野をつくっている川の名前は「柏尾川」で、権太坂から下ってきたところの柏尾町という町名も、山内家の家紋は「三つ柏」なのと、何か関係があるのかも知れない、などと、妄想が暴走を始めたではありませんか。
いや、もちろん単なる偶然です。
今一度、高知城歴史博物館の説明、見てみよう。土佐山内家の正式家紋は「丸三葉柏紋」。で、人口に膾炙してるのは、一豊さんの父、盛豊さんが、柏木を指物として武功を挙げ、縁起が良いので家紋とした、という話。柏との縁はそれからなのか、と思いきや、このHPでは、鎌倉時代初期から、全国に広がっていた「山内家」が「丸三葉柏紋」を使用していた、と書かれてます。なるほど。この山内荘に済んだ頃も、「丸三葉柏紋」だったのかも知れないとするところから、上記の妄想へとつながっていくのでした。
写真は、同級生森岡浩くんの「名門・名家大辞典」の「山内家」の項目界隈。
「日本人のおなまえ」でお馴染みの森岡くんに、山内家と山内荘と地形の関係を聞いてみたいけど、最近売れっ子になって忙しそうな専門家森岡くんに、こんな妄想をぶつけるのは恥ずかしいので、取り敢えずはやめちょきます。でもいつか、聞いてみたい。