歩道橋の形状と「山内」のルーツ地形〔6645〕2021/06/25
2021年6月25日(金)薄曇り
昨日の夕刻、結構降りました。久々の土砂降り。梅雨ですきんね。で、今朝は晴れてます。
ここは常盤町の歩道橋のある交差点。鏡川大橋を北へ下ったところにある交差点、というとわかりやすいでしょうか。
この歩道橋の話は、以前にも書きました。今は、横断歩道橋は撤去していこう、という動きがあるけど、この歩道橋は必要なんだろうか、という話。こっち側、つまり西から東へ渡るのは、信号の横断歩道で渡れます。歩行者が渡れないのは、向こう側の南北。そこが渡れない為に、足腰の弱い方は、向こうの信号まで迂回しないといけない構造は、高齢化社会の今、どうなんでしょうかね。
この歩道橋を計画、建設した当時は、激化する車社会から歩行者を守る、ということで作られたんだと思うけど、世の中はどんどん変化してますきんねー。都市計画ってのは、どうしてこんなに臨機応変が苦手なんだろう。
それはともかく、この三菱型の歩道橋で思い出すのは三つ柏。
ご承知の通り、三菱のスリーダイヤは、土佐山内家の家紋「三つ柏」と、三菱創始者岩崎家の家紋「三階菱」が組み合わさったもの。土佐山内家がなければ、三菱もなかった訳だから。菱形がこの歩道橋のような形状に並んだのは、山内家の家紋がそんな形だったからね。
土佐山内家。山内一豊の祖父、久豊が、尾張にやって来て以降は、わかってます。久豊までの系譜は「不明」やけど、備後国の一部の地頭職だった山内氏で争いが起こり、その際に丹波に移った山内俊家を遠祖とする、となってます。そしてその山内家は、藤原北家秀郷流の山内首藤家の一族である、と。それは、僕の同級生で「日本人のおなまえ」でおなじみの森岡浩くんの著書「名門・名家大辞典」に書いてました。ちなみにその本、以前の同窓会のときに森岡君に頂いたサイン入り本。森岡君、ありがとう。
それはともかく土佐山内家。
高知城歴史博物館のHPには、その山内首藤家は、鎌倉の「山内荘」から出たと書いてます。つまり「山内」という名字は、北鎌倉の「山内」がルーツになる訳だ。
調べてみると、山内荘は、現在の北鎌倉から大船、横浜市栄区、戸塚区界隈にあったらしい。Googleマップで見ると、この辺ね。今は住宅がこれでもかと立ち並ぶ地域。ここが、山内。
ここが山内である理由は、地理院地図の色別標高図で、わかります。
標準地図がこれ。現在の航空写真がこれで、色別標高図が、これ。そう。山に囲まれた柏尾川の氾濫平野にできた荘園が、山内荘。
本日の結論。この、山に囲まれた氾濫平野が「山内」であり、それが幾百年の時を経て土佐山内氏となり、その山内家の家紋は三つ柏で、それが岩崎家の家紋とハイブリッドになってスリーダイヤが生まれた話と、この歩道橋の形状は関係ありません。「山内」の「山」のルーツは、この界隈の山だった、という、まあ、どうでもいいような話です。
さあ。仕事仕事。