礫石、土佐神社、鳴無神社〔6629〕2021/06/09
2021年6月9日(水)晴れ!
夏空。ここは今朝の土佐神社。礫石。つぶて石。
本殿から、裏手の森をひとまわりしてくると、しめ縄で囲まれた岩が鎮座まします。その名も礫石。幾度か書いてきたことありますが、説明板にはこう書いてます。土佐大神が土佐に移って来たときに、まずは浦の内に到着して加茂の大神として祀ったけど、あるとき神様が現れて、ここは私の居る場所ではない、と宣ったので、石を投げさせたところ、その石が、ここに落ちた。そこで、ここを社地と決定した、という話。そして、蛇紋岩地層のこの場所にチャートのこの石があるのは、学問上、特殊の資料である、とも書いてます。
ここに記されていることには、色々と突っ込みどころやら、貴重な情報やらが盛り込まれております。
まず、そもそも。この石が、古代人の信仰としての磐座であったのではないか、と思われます。つまり、この岩に神が降りてくる、というのが、太古の昔にこの界隈で暮らしていた人々の信仰であった、と。土佐神社参道入り口に古墳があるけども、たぶん、その古墳が作られた頃の信仰。
それがいつしか「土左大神」となって、土佐国造が信仰する、重要な場所と、なりました。
そこに加茂氏がやってくる。
「続日本記」には、雄略天皇が一言主神と葛城山で問答した話がでてきます。そこでの一言主神は、高鴨神。葛城山は加茂氏が勢力持ってた所ね。で、その高鴨神と雄略天皇が猟をめぐって争い、高鴨神は土佐へ流されて、そこで土佐国造の先祖として土佐神社に祀られた、というストーリー。
「釈日本記」にも似た話(一言主神が土佐へ流された話)が書かれてあって、奈良時代になってから、加茂氏の奏上で一言主は葛城山に戻ることができたけど、その「和魂(にぎみたま)」は土佐にとどまって、今に至るという筋立て。
以上の話から妄想してみました。
最初、この地に古墳をつくるような勢力を持った部族が存在した。その一族は、このチャートの巨岩を磐座として信仰していた。その後、その信仰は「土佐坐神社」とか「土左大神」とかいった信仰に姿を変える。そこに、中央での勢力争いに敗れたのかどうなのかはわからんけど、非常に力を持った加茂氏の係累が土佐へ下向しきて、地元の豪族に取って替わる力を持ち、「土左大神」は、加茂氏の祖の一言主神、つまり味鋤高彦根神となって、土佐一宮、土佐神社として、今に至る。
ここで問題になるのは、浦の内の鳴無神社との関係。
今、しなね様(志那禰様)として賑わう土佐神社の夏のお祭りでは、そもそも、浦の内の鳴無神社への海路による御神幸が行われてました。しかし再々の海難で、江戸時代になると、五台山北麓に御旅所(小一宮)が設けられて、そことこことを御神幸するようになり、それも今ではなくなって近くの一本松御旅所に陸路神幸するようになってます。
その話と、この礫石の伝説。
加茂氏が土佐へ勢力を広げる際に、浦の内が重要な役割を果たしたのか果たさなかったのか。ああ。妄想が止まらない。
あと、この石の謎。確かにこの北側は、蛇紋岩地帯。でも、チャートがない訳では、ありません。しかしこの礫石は、根が生えている石ではない。つまり、地学用語で言うところの転石で、どこかから流されてきたのか運ばれてきたのかした、石。
そんな石が何故、磐座となったのか。この石は、古代人にとって、どう特別であったのか。
今朝は一宮方面に仕事があったので、早朝から土佐神社に寄ってお参りしてたら、妄想が止まらんなってしまった。世の中、謎に満ちている。
謎はいいけど、そろそろ仕事を始めよう。今日も暑い一日が始まりました。