物部川橋と十禅寺橋〔6610〕2021/05/21
2021年5月21日(金)雨
こないだ、吉野川に架かる吉野川橋のこと、書きました。現在吉野川には、徳島市の、河口近くに架かる吉野川橋と、高知県大豊町の穴内に架かる吉野川橋があります。と、書いたけど、どうやら大川村にも吉野川橋って架かってるし、高知自動車道も、大豊町で吉野川橋を渡るし、徳島県では徳島自動車道にも吉野川橋があって、全部で5本の吉野川橋がありました。
国道32号が開通したのは明治27年。でも当時は、吉野川に架かる橋は、ない。大豊町の、現在の吉野川橋のところに渡し船があったんだそう。でも、大雨のたびに川止めになって、とっても不便だったと言います。そんな訳で、明治44年に、当時としては最新の技術を駆使して、あんなに立派な吉野川橋が架けられた訳だ。あの立派さの理由。わかりました。
そんなこんなは、大豊町史に書いてます。大豊町史って、ネットで見れるんですね。この第五章が「交通・通信」で、そこに記載されてます。
さて。では、会社の裏手の物部川には、物部川橋という橋は何本架かってるんだろう。
一番河口、空港の近くに架かる橋は「物部川大橋」。昭和51年竣工。
現在の国道55号線に架かる橋は「新物部川橋」。昭和46年竣工。
そして、旧国道のこの橋が「物部川橋」。平成6年竣工。
実は、探して見たけど、物部川という名前を冠した橋は、この3本だけでした。つまり。物部川には、物部川橋は、この1本だけ、ということがわかりました。どうでもいいですか?
でもここで、僕は重大なことに気付いたのです。
スマホアプリの「古地図散歩」で、1960年頃の地図を見ると、この橋は、なんと「十禅寺橋」という名称なのである。「物部川橋」ではない。まだ、新物部川橋も物部川大橋も架かってなかった時代だ。その頃、物部川には「物部川橋」という名前の橋は無かったのか?
今朝は、物部川橋東詰で写真を撮って、1960年頃の地図と並べてみました。地図の左端の青丸が、今、僕が居る会社の位置ね。まだ会社はないけど。
で、当時の航空写真が、これ。できたばかりの会社が写ってます。そしてここに架かっていた橋は「物部川橋」だったのか「十禅寺橋」だったのか。
あ。今、重要なことに気付きました。この十禅寺橋の横に、土電安芸線の橋がある。この橋の名前は?
おう。物部川橋梁ではないか。その当時、物部川橋と呼べる橋は、土電安芸線の橋だけだったのかも知れません。では、現在の土佐くろしお鉄道の橋は?
結論から言うと、わからん。今日のところはわからんかったです。ネットにも、橋の名前は載ってないし。
そんな訳で、今のところ確認できる物部川橋は、この橋だけ。
いや、今日、申し上げたかったのは、この旧国道の物部川橋は、1960年頃には「十禅寺橋」という名前の橋だった、ということなのです。朝っぱらからどうでもいいですか?
こういう近所の謎、身近な謎を解いていくことから、歴史民俗学は始まるのだ。始まるのはいいけど、夜が明けてきました。そろそろ仕事を始めよう。