桂浜の研究〔6607〕2021/05/18
2021年5月18日(火)薄曇り
梅雨の晴れ間。このまんま、晴れ間が続いてくれたら嬉しいけどね。そうはいかんろうけどね。
そんな訳で桂浜の話。今日は、久々にオーテピア。マーケティング資料を探しに来てます。で、ついでなのでこんな冊子を見てみました。「桂浜の研究」。
この冊子は、高知市教育研究所というところが昭和32年に発行した冊子。今はもうかなり痛んでるので、館外持ち出し禁止。館内閲覧のみやけども、なかなか面白い内容で驚きました。
過去の写真とかは載ってないけど、桂浜の推移は、なんとなくわかります。
わかったことがいくつか。
まず、浦戸湾、高知港の出入り口を広げようということで、湾口の邪魔になる岩礁を撤去したのが明治20年。すると翌年の暴風雨で大量の砂が押し寄せて湾口を塞いでしまった。つまり、岩礁が砂防の役目を果たしていたことがハッキリする。そこで、防潮堤というよりも砂防の堤が必要だ、ということになったようですね。
龍頭岬、つまりここに防潮堤ができたのは大正8年から9年と書いてます。なるほど。100mの防潮堤は、西から流れてきて浦戸湾口に堆積していた砂を堰き止め、桂浜に堆積させる砂防の役割を果たすことになった訳だ。大型船が浦戸湾口を出入りできるようにするのと引き換えに、桂浜には大量の砂が溜まっていくことになりました。
龍馬像ができたのが昭和3年なので、その頃は、どんどんと砂が堆積していた時期でしょう。桂浜の景観がどんどんと変化していた時期に、龍馬さんはあそこに立ちました。
そんな潮と砂の流れを図示したのが、この写真の図。
ちなみに、あの、今は人工的岩礁になった龍頭岬には、桂浜の初代灯台があったこと、あんまし知られてませんね。それは明治16年のこと。明治37年に現在地に移設されるまで、桂浜の灯台は、龍頭岬にありました。昨日の夫婦岩の向こう側。
あと、興味深いのは、今の水族館の東側界隈。そこには「こどもの国」。遊園地みたいになってました。昭和32年当時。そしてそこの地名は「唐人」。今、鏡川北岸に「唐人町」があるけども、元親が朝鮮出兵で連れ帰ってきた朴好仁一族郎党は、当初、そこに住まわされてたのか。浦戸城の真下やね。
で、山内一豊が城下町を建設するに際し、鏡川北岸へそっくりそのまま移転させた、という話。
なので、山内時代以前には、桂浜には朝鮮から連行されてきた人々が暮らし、豆腐業者が軒を並べていた、という話も、あります。今は昔。
長宗我部時代、今の景観からは想像もできない桂浜が、いや、勝浦浜が、そこにはありました。
そして幾星霜。明治まで、今より狭く、岩がゴロゴロしていて「月の名所」となった桂浜。
浦戸湾口の大型船の往来と引き換えに、アッという間に大量の砂が堆積し、今の景観になった、桂浜。