桂浜の風景〔6605〕2021/05/16
2021年5月16日(日)雨
梅雨入りって、あーた。なんですかそりゃ。
確かに昨日、「梅雨が近づいてきた感じ、あります。もう、そんな季節か。」と、書いたけど、「もう、そんな季節」ではない。「まだ、そんな季節にはなってない」。だって5月ですきんね。しかも中旬。平年より3週間早い梅雨入りって、あーた。それだけ早く梅雨明けしてくれたら文句はないけど、どうなるんだろうか。づつないねー。
そんなことも言うてられんので、今朝は雨中自転車にしてみました。早朝から浦戸湾を1周して参りました。雨に打たれながら自転車漕ぐのは、爽快ですね。いや、爽快。ホントです。
今朝も、浦戸湾東岸を走って仁井田から、種崎。幾度も紹介してきた県営渡船は使わず、自転車に全然優しくない浦戸大橋を渡って桂浜へ。そして長浜、瀬戸から横浜、孕の海沿い道を通って桟橋へと帰るルート。
今日は桂浜の話。日曜朝の桂浜やけど、コロナ禍中で梅雨入りした桂浜は、静か静か。ここに以前の賑わいが戻るのはいつのことか。
月の名所、桂浜とよさこい節に歌われたくらいなので、藩政期から、桂浜は土佐の人たちに親しまれてきた浜だったのは、間違いない。
しかし今朝は、江戸時代や明治期の土佐人が親しんだ桂浜と、今、こうやって見ている桂浜はかなり違うんではないか、という考察だ。さて、どういことか。
このスマホに表示されてるのが「古地図散歩」というアプリ。青い丸が、現在地。青い丸のところで写真、撮りました。どうですか?
この地図は1900年頃、つまり明治30年代の桂浜界隈。当時、今僕が立っている浜は、海だったのだ。龍王岬と龍頭岬に挟まれた海の真ん中。地図がどこまで正確なのかわわからんけど、参謀本部陸軍部測量局が測量してるから、そんなには違ってないはず。そうすると、その頃の桂浜の浜辺は、今よりずっと狭かったようであります。そして今もある竜王岬と、北側には龍頭岬があって、岬の周囲にも高礁という名の岩礁。岩礁と岬に挟まれた、狭い浜が、桂浜ですな。
今の駐車場のところも海で、恵比寿礁、雀ヶ礁という岩礁が見えます。
今の広い浜は、明治以降に堆積してできた浜、ということがわかります。たぶん、防波堤ができてから、砂が堆積するようになったんだと思われます。知らんけど。
この航空写真が、地理院地図で一番古いもの。戦後間もなく。これの高解像度表示をポチって、桂浜界隈を見ると、既に桂浜の浜は、かなり広くなってること、わかります。よく見ると龍頭岬界隈の岩礁部に、なにやら防波堤みたいなのが、見える。これだ。あそこに防波堤ができたことで、徐々にここに砂が堆積し、浜が広がって今のような風景になったのだ。そうに違いない。
桂浜は五色の石で有名やけども、それは、仁淀川が四国山地の付加帯から運んでくる石が、チャートなどの様々な石を含んでるからで、龍頭岬の防波堤によって、この浜にたくさん堆積するようになったのかも知れません。皆生温泉の浜が人工リーフによって再生されようとしてるのと同じ理屈なのかどうかは知らんけど、そんな気がするではありませんか。
で、海岸の形状って、ビックリするような速さで変化していきます。
龍馬像ができたのは昭和3年。その頃は、まだ、桂浜は今よりずっと狭かったのか。大町桂月が「見よや見よ みな月のみのかつら浜 海のおもよりいづる月かげ」と詠んだのは大正7年で、龍馬像の時代よりももっと狭かった桂浜を詠んだのか。
少なくとも、今、僕らが当たり前に見ている「桂浜」、これが「桂浜」だと思って見ている「桂浜」は、月の名所と謳われた頃の「桂浜」とは全然違う「桂浜」なんだろうねー。
当たり前だと思ってることの、儚さよ。
気候も、僕らが当たり前と思ってきたことが、当たり前ではなくなりつつありますきんね。