官道と香長条里と長岡台地〔6556〕2021/03/28
2021年3月27日(日)雨
昨日はほんとうに良いお天気でした。お花見日和。あちこち、人出は多かったようです。それでもコロナの中なので、いつもとは全然違うお花見風景。そんな桜満開の日曜日を迎えたけど、今日はあいにくの、雨。春の雨が、朝から降っておりますね。
写真は、昔、士島田遺跡として紹介したことのある場所。これ、見てみてください。今から13年前の風景。同じ場所から、同じ方向を撮影しました。ここに「あけぼの街道」を作るに際して行われた発掘調査で、古代官道が現れた場所。道路が開通し、今は面影すらもないけど、今から13年前はこうなってて、今から1300年前は、ここに広い直線道路があったのでした。道幅6mで、官道であることを指し示す側溝がクッキリ。幾度も書いてきたけど、古代官道は広い直線道路だった。サービスエリアのような駅制もあって、すべての道はローマに通ず、であるかのように都につながっておりました。大化の改新から天武天皇の改革、そして律令制度が構築されていく中で急速に進展した中央集権。その「中央集権」の象徴が、全国各地と都を結んだ広い直線の官道。
結局、維持管理とかに莫大な負担がかかるようになり、平安時代になって廃れていった古代官道。河川が多く雨も多い日本の風土には、結局のところ適してなかったということか。
地理院地図の、この十字の場所に立ってます。こうやって見てみても、その官道が走ってた痕跡は、まったく認められません。
でも、真北から東へ13度振れている香長条里は、今も確認できます。こっからが今朝の本題だ。
この条里制は、律令制度ができあがっていく中で、全国各地で実施されました。学校で習った「班田収授」とか、要するに税金を集める仕組として、農地をわかりやすく整理した訳だ。面積とかがすぐわかり、税額が計算できるように。
ここに南海道たる道路が作られたのは、たぶん、7世紀のこと。その官道に合わせるように、地形なんかを無視して線を引き、田んぼの区画整理をしたのが香長条里だと、思われます。
もっと空高いところから見ると、こう。弊社のある物部川界隈まで、見事に同じ角度で条里が組まれてること、わかります。
ところが。
この、国分寺からつながる官道界隈と、弊社がある物部川西岸の平野の条里は13度東に振れた香長条里やけど、それに挟まれたエリアに、条里がちゃんとなってない部分が、あります。同じ地図を、土地条件図で見ると、こうだ。
そう。見事。更新世段丘である長岡台地の上には、香長条里が、ない。はっきり一致してますねー。香長条里がないのは、長岡台地の上。
これが意味するところは、簡明っすね。
条里制は、田んぼにかける税をわかりやすくする制度。だから、条里制が採り入れられた1300年前には、長岡台地の上には田んぼがなかった訳だ。更新世段丘は、地盤が硬くて水捌けが良い。つまり、田んぼ、できない。長岡台地の上に田んぼができるのは、たぶん、野中兼山先生の出現を待たんといかんかったんだと思われます。
そんな訳で、今朝は、長岡台地の上の田んぼが東に13度振れてない理由について考察しました。面白かったですね。
古代官道は、1300年後の今は、まったく痕跡も残っていない。地域に暮らす人々にとって意味なかったから。
田んぼの条里は、1300年の時を超えて、今も残っている。地域の人々にとって、条里は便利だったから、残ったのでありましょう。
1300年後、この風景は、どうなってるんだろう。