南海地震の朝は氷点下0.6℃〔6459〕2020/12/21
2020年12月21日(月)晴れ
おーのひやい。
そう言えば去年の冬って暖冬で、高知市の12月、1月は、一度も氷点下にならんかったという驚異的な暖かさだったこと、思い出した。それに比べて今年の冬は。
いや、12月の上旬は去年並の気温やったけど、15日頃から冷え込んで、なかなかの冬になりました。今年の毎日の気温をこれでご覧ください。高知市のね。
16日から3日続けて氷点下。今朝もたぶん、氷点下やと思います。氷点下。ひょーてんか。おーのひやい。
まあ、冬ですきんね。これでひやいひやい言いよったら、大雪になっている地方の皆さんに申し訳ない。
終戦の翌年、昭和21年の今日、昭和の南海地震が発生しました。そのとき、高知はどんな気温だったのか。気象庁のデータベースで、そういった気象データが検索できるようになってるので、見てみました。いつのまにか便利な世の中になってますな。
1946年12月21日の、高知市の最低気温は-0.6℃。地震が発生したのが午前4時19分。発生直後に最低気温になっているとすると、人々は、氷点下の寒空の下、避難を始めたということになります。その日の降水量は、6.7mm。雪なのか霙なのか雨なのかわからんけど、たぶん冷たい雨が少し降ったんでしょう。
南海地震は、必ずやってくる。必ず起きるけど、それがいつ、どんなタイミングで発生するのかは誰にもわからない訳で、対策も、可能な限り想像力を働かす必要がある、ということだと思います。
僕らの親が経験した昭和の南海地震が起きた日の朝は、高知市で-0.6℃だった。
ちなみにその年の12月、氷点下になったのは15回。月の半分は氷点下。一番寒かったのが19日で、-3.1℃。そんな気温で地震に遭い、避難せんといかんなった人々は、大変だったでしょう。暖房器具もない時代。炭や薪で火を起こして暖を取ってたでしょうか。
現代のこの社会で大地震が発生し、電気やらなにやらが長期間止まったら、どうやって暖を取ったら良いのか。昭和21年だと、炭や薪があったかも知れんけど、今、そんなものを常備してる家庭はほとんど無いし。
そんなこと考えると、阪神淡路大震災や東日本大震災で避難生活を送られた人たちの苦労って、僕らが想像することもできんような大変なものだったことがわかってきます。
写真は、今朝3時半前の弘化台。車がカチバリついて、フロントガラスをしばらく温めてる間に、車の上にコンデジ置いて撮影しました。明るく補正してるので、霜で光ってる車の表面が真っ白。空の上にはオリオン座。
74年前の今日、地震に遭った人たちも、寒空に輝くオリオン座の下で、寒さに震えていました。もちろん星空を見上げる余裕はなかったでしょうが。