桟橋のループ線〔6412〕2020/11/04
2020年11月4日(水)晴れ!
きれいに晴れて放射冷却。今朝は10℃、下回ってますね。ひやい。体が引き締まります。
昨日は、午後、横浜から春野、治国谷を自転車でまわってきました。自転車で坂道を漕ぎ上がりたくなったもんですきに。その途中、桟橋の電停のところで、過去を検証。
ご存知の方もいらっしゃると思いますが、かつて、桟橋の電停はループになっておりました。その検証。
この写真は、大正十年発行の「高知市街圖」。現在の桟橋通にはなんにも無く、筆山の東に土佐中学校が見えるばかり。その桟橋界隈が拡大されてまして、それを撮影したのがこの写真。わかりますでしょうか。終点は、ループになっておりますね。
当時の停留所名は「桟橋停留場」。現在は桟橋通五丁目停留場。
そもそも土佐電気鉄道として発足し、市内に「電車」を走らせてるから、ループ線は必要ないみたいに思えます。基本、電車って、運転台が前と後ろ両方にある構造なので。ループにならんでも折り返し運転ができる訳だ。ここにループが作られたのは、貨物列車の折り返し用なんですね。桟橋から伊野の間で、土佐和紙関連の物資を運んでいたといいます。貨物列車は機関車が引っ張るので、ターンテーブルかループ線が必要だったのでありましょう。
さて。では、その桟橋のループは、今だとどこに該当するのか。それを検証してみた訳です。はい。
これは、ストリートビューの桟橋五丁目停留場。ここから右にカーブしてますが、これが嘗てのループ線。カーブを曲がり、ここ。ループ線は、たぶん、ここで右に曲がって直進、現在の桟橋の交差点あたりで本線に合流してたんだと思われました。どうでもいいですか?
この大正十年発行「高知市街圖」には裏面があって、これが面白い。高知市の「市勢要覧」が表になってます。土地、気象、戸口、学事から始まって各種産業の趨勢などが細かく記載。「土功及交通」という項目があって、そこに車両や船舶の数が載ってますね。
電車72、荷積馬車29、自転車3,370、荷積車1,872、人力車128で、自働車が31。
大正十年(1921年)は、今から約100年前。高知市の自動車が31台という時代。
ちなみに当時の高知県の人口は約68万人。そう。2020年10月1日現在の高知県の人口は68万人台だから、ほとんど、一緒。100年経って、人口は同じ。ああ。
でも100年前は、人口がどんどんと増えてた時代で、今はどんどんと減ってる時代。そもそも100年前に、100年後のこんな状況は想像もしてなかったでしょう。自動車が31台の時代にね。今の自動車の台数は知らんけど、ともかく100年前に想像もしてなかった社会が現代、という訳で、それでも人口だけは同じという訳で、こりゃあ100年後にどんな人口のどんな社会になっているか、なんてことは誰にもわからん訳ですな。
100年経ったループ線の痕跡カーブを眺めながら、100年後のことを思う朝。