新堀川護岸と穴太衆〔6394〕2020/10/17
2020年10月17日(土)小雨
今朝は、11時から、新堀川護岸発掘調査の現地説明会。道路の拡張に伴い、新堀川を東側へ掘り広げて、貴重な遺産である石積みなどを移設、保存することになってるのはご承知の通り。
で、それに併せて埋蔵文化財の発掘調査が行われてます。もう、3年。
新堀川は、正式には「横堀」でして、南で堀川と、北で江ノ口川とつながる藩政期の交通の動脈。近くに材木町もあったりして、とても重要な役割を果たしておりました。
その風景は、藩政期に描かれた絵図などに頻出するけど、実際にどうだったのかは、よくわかってません。今回の調査で、次々と、藩政期の風景や技術などが明らかになってきてますねー。
今まで表面に見えてた石灰岩の亀甲積み石垣は、たぶん幕末に積まれたもの。でも、今回の発掘で、新堀川の水面下、泥に埋まってる石垣が2mほどあったことが、わかったのでした。
写真をご覧ください。
左端が、石灰岩の石垣の表面部分。手前の方は根石だけになってるけど、ここに、向こうにビニール傘を差した女性の高さまで、石積みがありました。地下に埋まること2m。干潮時でも水面下なんで、どうやって積んだのか、謎が深まります。
で、その表面石垣から掘り進むと、表面より1.5mくらいのところに、石灰岩の石積み。これが「石垣」かどうかは、この背面を発掘調査してみんとわからんそうですが、この成形してない石灰岩の自然石を使った石積みは、1800年前後のものと推測されるそうです。その背面にはシルト層があって、たぶん、1700年頃の土手。ああ。横堀の歴史が順番に並ぶ。まるでメランジュのよう。
貴重なものを見せていただきました。
さらに発掘が進んで、横堀が開削された時代の風景が浮かび上がったら素敵やねー。
で、今日のトピック。なんと、この石垣移設復元工事には、かの穴太衆が関わっているのでありました。そう。近江坂本の石垣職人集団で、高知城の石垣も積んだ、石積みのスペシャリスト、穴太衆。あのうしゅう、と読むのは知ってますよね。
信長や秀吉によって確立された近世城郭の石垣は、穴太衆なくしては存在しなかったと言うても過言ではない、と、僕は思ってます。その技術者は山内一豊さんにも召抱えられ、高知城の石垣を積んだのは有名な話。
その穴太衆の中で、江戸時代の始めよりそのまま今まで続き、会社組織「株式会社栗田建設」となって存続してるのが、栗田家なんだそう。ちゃんと、ウィキに載ってます。
今回の石垣移設には、その栗田建設さんが関わってくれてて、今日の説明会には「第十五代目穴太衆頭」である栗田建設代表取締役、栗田純徳さんが出席。石灰岩の加工の難しさなどについて語ってくれたのでした。
あとで、名刺交換させてもらったりして。
いやー、感動。説明では、野面積みの頑丈さなど、貴重なお話を聴けました。
まさか、穴太衆末裔の棟梁にお会いできるとは、思わんかった。最近僕が石積みにハマってるのは、ご承知の通りですきんね。
栗田建設さんのホームページはこれ。http://www.anoushu.jp/というURLの格好良さよ。こんなインタビュー記事もありました。すごいね。
今日は時間がなかったので、あまり詳しくは聞けんかったのが残念。高知城の石垣はチャートの野面積みやけど、その特徴とか難しさとか、花崗岩との決定的な違いとか、聞きたかった。
石灰岩というのは、割れ目の走る方向が八方にあるので、非常に加工がしにくい、とのこと。その石灰岩をわざわざ亀甲積みにした横堀の先人たちの、努力。
良い説明会と良い出会いでした。
いやー、穴太衆の親方に会ってしまった。