放射状の記憶〔6393〕2020/10/16
2020年10月16日(木)曇り
曇ってます。10月も、いよいよ後半へ。冬も近いけど、どうなるコロナ。このまま静かに収束終息ってなったらいいのにね。ボチボチ高知らしい宴会もしてみたい。
さて。
昨日、旧高知刑務所の放射状建物群のこと、書きました。明治以降、文明開化の中で、西欧からああいった形状の刑務所の作り方をモデルとして導入したんですね、日本は。囚人の人権は軽視されてた時代の、採光とか日当たりとか風通しとかを考慮しない、管理のしやすい建物配置だった訳だ。だから収監された部屋によって環境は当たり外れがあったんでしょうねー。経験者に聞いてみたい。
で、その1970年代の高知市の航空写真で、、同じような放射状の構築物はないかと思って眺めてみると、あった。ありました。ここ。高知駅のターンテーブル。転車台。
以前、大阪の十三から新大阪へと走ってて、小さな転車台を発見したけど、あれは機関車の向きを変えるだけの小さなもの。
でも、高知駅にあった転車台は違いました。大きい。かなり、大きい。そして、中心の転車台から放射状に伸びた線路の先には車庫みたいなの。扇状庫というらしい。鉄道博物館みたいなところのポスターで見たことあるけど、ここ高知駅にもそこそこのターンテーブルがあったのでした。
このカーブ。1970年代の航空写真だとこれで、現在だとこれ。このカーブが、転車台の扇状庫の周囲にあった道のカーブであること、わかりますねー。すごい痕跡と言えましょう。
転車台の中心は、今は公園になってて、扇状庫の南端は現在の高架の南まで至ってるのを見たら、扇の大きさがわかります。でかい。
そして、当時の四国の大きな駅を見てみたけども、ない。ありません。1960年代の松山駅を見ると、ありますね。1960年代でも、大きなターンテーブルは、高知駅と松山駅にしか見えない。松山駅のは1970年代には既に取り壊されてましたが、高知駅の転車台と扇状庫、2000年の航空写真まで、見えます。2004年の航空写真になって、はじめて取り壊されてた、高知駅の転車台。
ついこないだまであった、巨大なターンテーブルと扇状庫。このにっこりを書き始めたのが2003年4月だから、その頃にはまだ存在してたのかも知れません。撮影しておきゃ良かった。その頃は、あーカイブを撮っておくみたいな気が全然なかったのが、悔やまれる。
ともあれ、今は昔。刑務所があったことが忘れられるように、ここに広大な高知駅の敷地と転車台があったことも、みんなの記憶の中から消えていくのか。
ここにある大きな焼肉屋さん「天下味」栄田店の、階段を2階へ上がったところの正面に、かつての高知駅周辺の航空写真が大きく掲げられてましたよね。もちろん転車台も、見えます。
焼肉食べにいくと、当時のこと、思い出せるかも知れません。焼肉、食べたい。