刑務所の建物配置〔6392〕2020/10/15
2020年10月15日(木)晴れ!
ここは高知城の西側。ここで屈曲して南北に流れている江ノ口川はお城の外堀で、そのお堀の西は桜馬場。この右手。寛文元年というから1661年、二代藩主忠義公が隠居して三代藩主忠豊公の時代、江ノ口川(大川)の河原が埋め立てられて馬場になりました。桜並木が植えられたので桜馬場。
その対岸、左側に城西公園。ここは、高知刑務所でした。昭和51年まで。追手前小学校に通い、高知城界隈を遊び場としてた僕らは、辷山の西側の刑務所の塀を見て、育ったことでした。内側には入らんかったけど。
今はこんな感じの公園やけど、その当時の航空写真は、これ。これが高知刑務所の建物の配置。うーん。見たことある配置やぞ。
そう。網走刑務所だ。放射状に建物が配置されるスタイルは、網走刑務所。どっかで見たこと、あります。看守とかが管理しやすい配置なんでしょうかね。放射状の建物。刑務所なんで、窓の向きとか無視して、管理しやすいように考えたのが放射状なんでしょうかね。知らんけど。
で。網走には、「博物館網走監獄」というのがあって、高倉健とかで有名な刑務所の旧建造物とかを保存、公開してます。Googleマップで見るとこれで、地理院地図で見たら、こう。
ところが、ここの1970年代の航空写真は、これだ。なんかの畑。なんにも、ない。で、その北方に目を向けていくと、現在の網走刑務所があります。Googleマップで見るとこれで、地理院地図で見たら、こう。そこの1970年代の航空写真は、これ。
そう。「博物館網走監獄」は、往時の建物を移設して、新たに作られた博物館なのでした。北海道開拓に重要な役割を果たした監獄なので、博物館になってる訳だ。その建設に資金が投じられた背景には、高倉健さんの影響も、大きいと思うけど。
監獄をそのまんまの場所に残して、別の場所に新しい刑務所を建設する、という発想はなかったんでしょうかね。そうした方が、ずっとリアリティがあって魅力的で、費用も少なくて済むような気がするけど、なんかの事情があったがでしょうかねー。知りません。
高知の刑務所は、高倉健さんが出所した訳でもないし、開拓で重要だった訳でもないので、すべて取り壊されて公園になり、新しい刑務所は布師田へと移転しました。まあ、街のど真ん中、お城の脇に広大な刑務所というのもね。なので、それはそれで良かったんでしょう。
刑務所ですぐに思い出すのは網走刑務所と、巣鴨プリズン。戦後、戦犯の裁判が行われ、収監された巣鴨プリズンは、こんな感じでした。元々東京拘置所で、その前は巣鴨刑務所。大都会の真ん中やきでしょうかね。建物は整然と並び、刑務所やけど、放射状のような無駄な土地は、ない。
今はサンシャインシティ。すぐ横に公園があって、なんとなく、絞首刑が行われた場所もわかる感じになってます。巣鴨プリズンの頃は、こうでした。
城西公園。ここに刑務所があったことを知る人も、少なくなりました。キンモクセイが香る秋の公園。小さな女の子を連れたおばあちゃんが、楽しそうに歩いてる、元刑務所の風景。