下知寄潮田、下知村、下知鰡〔6389〕2020/10/12
2020年10月12日(月)薄曇り
月曜日の朝。出勤途上の、葛島橋西詰。歩道橋の上から、西の方角を撮影しました。空には雲間から火星が顔をのぞかせています。
午前3時半の、知寄町。すぐそこに知寄町3丁目電停が、あります。国道55号は、ここから電車通りに別れを告げて通称南国工場バイパスへ。
航空写真で見るとこうなってて、僕が子供の頃、つまりバイパスができる前は、こんな感じ。
知寄町は、もう、当時から結構家が建てこんでたこと、わかります。江戸時代から下知村として発展してきた町、下知村。しもじむら。藩政期から下知村で、大正5年に下知町になり、大正15年に高知市に編入されて高知市下知。
下知という名称は、ご想像のとおり、下知寄からきてますね。集落の西方に、知寄ヶ淵という深い淵がありました。土佐物語に「知寄などいふ底もなき渕なれば、たやすく埋草も及ぶところにあらず・・・」と描かれた、淵。知寄ヶ淵。その淵から流れる川が知寄川で、藩政期になって上知寄、下知寄の地名ができ、宝永の南海地震の後くらいから下知という名称が使われ始めたらしい、と、角川書店「高知県地名大辞典」に書いてます。これ、便利な辞典です。
地理院地図の土地条件図を眺めて、そんな地形を想像してみるのも、楽しいかも知れませんね。楽しくないかも知れんけど。
土地条件図見てると、昔は、海であり干潟であり、塩田であったことが想像できます。城下に近かったことからどんどんと新田開発が行われたエリアなんですね。藩政期は民活を利用するのが上手で、開発した人の名前がたくさん付けられてます。
このエリアが激しく開発されたのは元和~寛永の頃と言いますきに、二代藩主忠義公の時代。古いっすね。野中兼山が開発を推進したのかも知れんような、時期。
十郎兵衛潮田とか藤右衛門潮田とか、開発者の名前がつけられた新田(潮田、塩田)がたくさんあるけど、潮江村の庄屋、山崎弥右衛門さんの弥右衛門潮田や、金田源右衛門の金田潮田は、今も町名に名を残してますな。
でね。「皆山集」によると、「土佐国国産往来」には、下知村の名産として「下知鰡」が書かれてるそう。鰡。ボラ。今も、浦戸湾内でよくみかけるボラジャンプですが、当時は下知鰡が有名だったんですな。まだ浦戸湾が美しく澄んでいた時代、下知の鰡がさぞかし美味しかったんでありましょう。
未明の下知村。この向こうに知寄ヶ淵が黒い口を開け、そこから知寄川が流れて浦戸湾に流れ込み、その周辺が潮田として開発されていった風景。岸辺には、鰡漁の小舟が浮かび、遥かに高知城の天守が見える風景。そう言えば、宝永堤の向こうは城見町でした。
さあ。こんなこと書いてたら、月曜の朝、5時になりました。今週も、元気に始まります。