高須隧道の急カーブ〔6351〕2020/09/04
2020年9月4日(金)薄曇り
台風10号が不気味に成長しながら近づいてくる。テレビやラジオでも警戒を呼びかけてますが、被害のないことを祈るばかりの猛烈台風、10号。
人類は、いや、生き物は、地球の大自然と折り合いをつけながら生きてきた訳で、どう折り合いをつけるかは、それぞれの知恵であったりする訳です。
トンネル技術も、そんな意味で、人類が自然と折り合いをつけながら生きていく、知恵。トンネルを掘ることで、より短い距離移動で済むようになるだけではなくて、地滑りなどの災害を回避できるから。一度掘ってしまったトンネルは、災害に強いと言われてます。
ただ、丹那トンネルみたいに、定期的にずれる断層を横切っているトンネルがどうなるのかは、わからない。まだ、人類にはわからないことだらけ。
昨日探検した廃トンネル、秋森隧道は、ここ。星神社の右手から現在の穴内駅方面へとつながるトンネル。その東には西屋敷トンネルという廃トンネルがあり、そちらはもう、かなり埋められているそうです。そこの地質は典型的地滑り地質で、地滑りによってトンネル内が変状してしまい、それが現在の和田トンネルを掘るきっかけになったとも言います。
まだ、昭和初期のトンネル技術では、そういった地滑りに対抗するほどの強度は構築できんかったのか。
今朝の写真。上側が、秋森隧道の東入り口付近の地積図。
昨日はもうひとつ、高須隧道の内部も見せて頂いたのですが、下の図面は、その旧高須隧道のもの。
大杉の、ひばり食堂の駐車場近くから、高知自動車道大豊インターへと抜けるトンネルがありますよね。あれが「新高須トンネル」。昭和61年開通の、広くて立派なトンネル。そのトンネルができるまで、大杉から本山、田井方面へと向かうには、現在よりも少し高い山中を掘り抜いた「高須隧道」を通っておりました。
大杉側から車を走らせると、出口直前で道が左に急カーブしていて、かなり危険でした。という話は、以前、その出口とともにご紹介したこと、あります。そこにも書いたけど、免許取り立ての僕が、初めて大川村へ自家用車を運転して向かったとき、その急カーブで対向車線にはみ出してしまい、あわや大事故、という経験をしたこと、あります。対向車がなくて、何より何より。
そんな危なくも懐かしい急カーブを、昨日は歩いてきたのでした。この下の図面。赤い部分がトンネルの部分で、左上、つまり現在のインター側出口近くで急カーブになってること、わかると思います。
この高須隧道が掘られたのが、昭和7年。秋森隧道の2年前。壁面は、同じような構造でした。
なんでこんな急カーブになったんだろう。なんで、直線にせんかったがやろう。どういて?
考えられること。
右下から掘ってきたら、計算が違ってヘンテコリンな場所に出てしまったので、慌ててカーブをこしらえたのか?
たぶん、違うと思います。当時も、トンネルは、両側の出口からせえのおで掘り進んでいく工法が一般的でした。なので、もしズレるとしたら、中央部分なのだ。それでは、何故?
この図面見てみると、左上出口のトンネルの方向は、谷の方向に沿ってます。谷に沿った形で掘り抜き、やおら山の等高線に直交するようにカーブして、直進。この地山の地質は、なかなか手強いと言います。かなりの地滑り山。ひょっとしたら破砕帯のようなものもあるのかも。
昭和7年の技術では、その地質、地盤に鑑みて、こんなルートが選択されたのかも、知れません。人類は、大自然と折り合いをつけながら、生きてきたから。
交通量が少なかった時代はそれでもよかった。
でも、高速道路のインターチェンジができるなど、交通量激増の時代を迎え、どうしても、新しいトンネルが必要となったのでありましょう。もし今も、この隧道が使われよったら交通事故頻発ぜよ。
人類は、その折々の技術で、折々の自然と折り合いをつけ、生きてきました。これからも、過信せず、慎重に、緻密に、謙虚に、折り合いをつけて生きていかんと、いけません。
ともあれ、台風10号への備えは、過信せず、慎重に、緻密に、謙虚に。