カニとセミと、生きること〔6332〕2020/08/16
2020年8月16日(日)晴れ
今日も暑いね。コロナの夏。今年のコロナの夏休みを、子供たちはどんな風に過ごしてるんでしょうか。高知県のほとんどの小中学校では、夏休みも、あと1週間。この夏休みは自由研究も無かったりするんですってね。それはそれで、ちょっと、寂しい。
ここは潮江天満宮。境内社である大山祇神社の、手水の前。
大山祇神社は、天満宮本殿の裏手、樹々に囲まれた小さな山のてっぺんに、チャート巨岩の磐座とともに、鎮座まします。由来は不明。手箱山から勧請してきたと描かれた説明板があったけど、手箱山には大山祇神社はなくって、その隣の筒上山だと思われる話は、以前にも書きました。潮江天満宮とのつながりも深いし。
で、そこには小さな手水が置かれてるのですが、夏になると、必ずカニが上がってきて、その手水の中で脱皮を繰り返す風景が、繰り広げられます。どうやら、アカテガニ。
アカテガニは、かなり陸上生活に適応したカニやけど、産卵は、海岸。冬は冬眠し、数年から十数年生きるとわれてます。必ずこの手水のところに戻ってくる、不思議。遺伝子に組み込まれてるんんだろうか、と思ってしまいます。わざわざ、この手水に毎年戻ってきて脱皮する、カニさんたち。
そうやって、生きている、カニ。カニの人生。
そしてセミ。セミの抜け殻が、今、あちこちの樹にへばりついたり地面に転がったり。長い年月、幼虫として地中で暮らしたセミは、地上で成虫になり、遺伝子をつなぐべく繁殖して、死んでゆく。
夏の朝、セミがやかましいくらい鳴き続けるのは、自分の遺伝子を残してゆくための叫び声。
でね。
セミにとって、人生ってなんだろう、と考えたこと、あります。その一生のほとんどの期間を、地中で幼虫として、過ごす。
「幼虫」と書くから勘違いしてしまいますね。あの生き物にとって、あの「幼虫」のような状態が、実は「成虫」と考えたらどうだろう。だって、あの姿で何年も何年も生きる訳だから。その一生の最後に、自分の遺伝子を残す為に地中へ出てきて、繁殖して死んでゆく。樹の上でワシャワシャワシャワシャやってるのを「繁殖虫」「繁殖態」と呼ぶと、彼ら彼女らの一生のあり方として、相応しいのではないかと、セミの抜け殻を見る度に、思うのであります。思いませんか?
地中にいる、みんなが「幼虫」と呼んでる状態が「成虫」で、まさしく、あの状態で生きることが、彼ら彼女らにとって「生きる」ということ。そしてその最後に「繁殖態」になり、遺伝子を残していく。
生きとし生けるもの。その在りようは、様々。
セミって、せっかく地上に出たと思ったらすぐに死んでいくのは可哀想、などと思うのは人間から見た見方であって、セミがどう思ってるのかは、誰にもわかりません。
やなせたかし先生も、言うてます。
ミミズだってオケラだってアメンボだって。
夏休みの自由研究やるなら、セミの一生と、セミにとって「生きる」とはどういうことか、考察してみてはどうだろうか。理科の自由研究から社会、哲学の自由研究へ。
あんまし暑いので、ちょっと、へんなことばっかり考えてしまう、日曜日の朝。暑い・・・