あれから9年〔6174〕2020/03/11
2020年3月11日(水)晴れ
あれから9年。
あの日の朝は、田んぼに水を入れる高須の風景を写真に収めた平和な朝でした。まさかあんな日になるとは思いもよらず。
大震災の後、県内各所の地震碑などを尋ねて歩き、命山の重要性を書き連ねました。あれから9年。
かつて三陸を襲った大津波の歴史を見ると、被害に遭った後、住民たちは高台に移住などをするけど、海岸沿いに新しい人たちが住みつき、それに引き寄せられるように旧住民が戻ってきて、再び海岸沿いの街が賑わいを見せる、ということを繰り返してきてたと言います。産土神を含めた、土地への愛着が、そうさせたのかも知れない。
今回の大震災ではどうか。
造成された高台には空き地が目立ち、街にも賑わいが戻ってこない。人口減少と衰退が、震災によって一気に進んでしまっただけ、という風景が目立つようです。そして原発。
かつての、歴史上繰り返されてきた大津波、大震災とは、その後の風景、様相が違う気がします。
さて。
あの大震災のおかげで、僕らの地震や津波に対する心構えも変わったし、対応も変わりました。あの大津波では、宮古市の海岸に構築されていた巨大な防潮堤が崩壊し、役に立たなかった。人間は、大自然の力の前では無力である、という事実を突きつけられた、巨大防潮堤の崩壊。
そこで変化したのが、津波の想定と、避難対応。
あの大震災までの想定がいかに甘かったか。それがわかったことは、僕ら南海トラフの近くに住む者にとっては重要なこと。
写真は、会社から南へ行った久枝の海岸近く。ここ。波の音が絶え間なく響く海岸の道に、避難タワーがたちました。
実は、9年前の4月に、この眼下にある消防の屯所を紹介してます。当時、あの消防の屯所が、津波からの避難施設でした。「予想津波高6mです。ここは海抜6.7m。もっと高い所へ」と書かれた表示板が、電柱に貼り付けられてたと言います。
津波高の想定が6mとすれば、外階段からあの消防屯所の上に避難すれば、大丈夫。そう思ってた、震災前。
改めて想定がやり直され、南国市の海岸では10メートル以上の津波が想定されることになりました。あの避難場所だと役に立たないことが、東日本大震災のおかげで明らかになった訳です。
過去の南海地震ではどうだったのか。異例に小さかった昭和南海地震は別にして、宝永地震とかでは、かなりの津波が押し寄せたと思われます。
その頃、みんなどこへ逃げたのか。たぶん、命山。久枝の北に、戦争の頃まで存在した室岡山、通称「命山」が、みんなの「命」を救ってくれたんだと思う。
その「命山」がない今、逃げる場所がどうしても必要。
ということで、構築された避難タワーの上から撮影したのが、この写真。朝、5時。7.08mの地盤の上に、10.83mの高さの避難タワー。真下にかつての想定による避難場所。向こうには、昔「命山」があった高知空港。
対策、対応は、あれから変わり、進化してゆく。
大切なのは、心が風化しないこと。
あれから9年が経ちました。