墓石、新地線、馬場孤蝶、田山花袋〔6159〕2020/02/25
2020年2月25日(火)薄曇り
もう、春。昨日の午後、会社から帰ってから、秦泉寺の実家の裏山(秦山)を探検し、そのまま三谷観音まで駆け上がってきました。藪漕ぎシーズンは、もうちょっとしかありません。もちろん夏の藪漕ぎは、それはそれで面白いけど、やっぱし冬が探検しやすいっすね。ハミもおらんし。
で。
秦山は、江戸初期からのお墓がたくさんある、山。寛永十九年(1642年)の、立派な砂岩の墓石もありました。ほとんどの古い墓石は藪の中。埋もれてしまってるものもあり、お墓ってなんだろう、と考えさせられます。
そうやって藪の中の墓石を見ながらたつくってると。小さな砂岩の丸い自然石の墓石に「元禄庚午 谷重遠母 嶋崎氏墓 八月十一日」と刻まれてるのを見つけました。おう。土佐南学の礎を築き、渋川春海に師事して天文学者でもあった、かの、谷秦山さんの母ではないか。
息子も孫も、有名な儒学者だし、明治の元勲谷干城は、その子孫。元禄庚午というと元禄3年(1690年)。その墓跡が当時のものか、後世になって建てられたものかは、わかりません。でも、谷家の伝統に沿い、小さくて質素な、お墓。藪の中でこういうのを見つけると、ちょっと、嬉しい。
そんな訳で、どんな訳か知らんけど、今朝は4時前に出勤しました。写真は、今朝3時半過ぎの若松町。ここ。知寄町二丁目電停からまっすぐ南へきた突き当たり。知寄町二丁目の方向を撮影しました。
この南北の道には、明治44年から昭和19年まで、新地線という電車が走ってました。現在の知寄町二丁目電停で分岐して。
以前にも書いたけど、稲荷新地で遊ぶ人が利用したり、浦戸湾を船で往来する人が、利用したりしてました。いかに、稲荷新地が栄えてたか、ということ、わかります。
我らが馬場孤蝶さんが大正11年に帰郷した際「帰郷日記」というのを書いてるけど、その中に、この電車を利用したことがしょっちゅう出てきます。
ある日は、堀川上流で「川一丸」という屋形船に乗り込み、種崎で大宴会。長浜からも芸者を呼んで、大宴会。
以前にも引用した、日記の文章を再録しましょう。以下引用。
九時頃解散。田中、山崎と共に大屋形にて帰る。闇の水上の趣甚だ快し。五台山沖あたりにて月出づ。十一時頃新地より電車に乗り帰寓。
以上引用。
優雅だねー。水辺の生活。こういう風景を、また、高知にも取り戻したいと思ってしまいます。夜11時に、まだ電車が動いてた時代。
この日記にでてくる「田中」は、たぶん田中貢太郎。当時は、文人同士、交流したり批評しあったり、という雰囲気が横溢してました。まだ、小説の文体が、できあがりつつあった時代。古文調から口語調へ。なにをもって美文とするか、という試行錯誤が行われてた時代には、作家同志が蜜に批評し合ってました。
そうそう。昨日の田山花袋の「東京の30年」にも、少しだけ馬場孤蝶さんが登場します。少し引用。
「文學界」に透谷の死に対するくやみの歌を送ったのが、「文學界」の人達と触れて行く基となった。(中略)帰りはたしか島崎君と馬場君と一緒に池の端の向こう側を歩いて、本郷の通りの方へ帰って来た。島崎君は色の白い感じの良い静かな若者であった。かれは歩きながら、私が「文學界」に載せた短編小説の批評などをした。新花町で島崎君と別れて、それから馬場君と本郷の通りをかなりこちらの方まで来た。馬場君は島崎君と比べては、元気な快活な青年であった。たしかその時、馬場君は鏡花の小説の批評をした。
以上引用。当時の文壇は、こんな空気でありました。この「島崎君」は、当然ですが、島崎藤村。
みんな、もう、歴史上の人物になってしまった人たち。
墓石はいつしか必ず埋もれてしまい、線路や新地があったことも忘れられてゆくけど、作品や名前、やり遂げたことは、ながく人々の記憶に刻まれてゆくのでありました。