友綱貞太郎碑と高知市相撲場〔614〕2004/12/20
2004年12月20日(月)晴れ!
今朝もとっても気持ちの良いお天気。
鏡川縁りには夜明け前からたくさんの鴨たちが群れちょりまして、近くを通り過ぎると川岸から慌てて離れて行きます。
今日も潮江天満宮から柳原橋界隈をたつくり走りよりました。皆さん、高知市競輪場「龍馬スタジアム」の南側に大きな大きな石碑がドカーンっと立っちゅうがをご存知でしょうか?ここがこのように新しい競輪場でして整備される前、高知市営の相撲場がありました。大相撲の巡業がやってきたり、大学選手権が開催されたりした由緒ある大きな相撲場で、ひまわり太郎も小学生の頃何度か見に来たことがあります。
その相撲場のあった辺りに、写真の記念碑がございます。この写真ではよう判らんと思いますが、とてもとてもドデカイ碑でして、道路脇にこの碑があることに気付いたヒトは、ちくとビックリしますね。
「友綱貞太郎碑」と、大きく大きく刻まれちょります。そう。高知県出身の相撲取りで、六代目友綱親方として活躍した友綱貞太郎さんの記念碑でございます。現役時代の四股名は「海山太郎」(初代)。
1854年の生まれで、少年の頃から相撲が強く、先日のにっこりでも少しご紹介した高知市新田にあった板垣退助さんの邸の相撲場の通い、地元での強豪力士になりました。明治10年に大阪相撲へ入門しますが、不満をもって大脱走。東京の板垣退助さんを頼って上京し、大相撲玉垣部屋に入門、明治17年、海山太郎として、高知県出身者として始めての入幕を果たしたそうであります。偉いもんです。。
しかし、この人物が本当に偉かったのはここから。明治24年に引退後は友綱貞太郎として国技相撲の発展に尽力します。板垣退助さんの政治力を後ろ盾にしちょったことは言うまでも有りません。明治42年に、両国に国技館が建設されますが、その建設の中心になって活躍したのが友綱さんだったのですね。
日本での相撲発展に寄与した功績はとても大きく、昭和17年に、門下生有志によってこの碑が建てられたのでした。