瓶の歴史はおもしろい〔6064〕2019/11/22
2019年11月22日(金)曇り
昨日、高知県埋蔵文化センターさんの話、書きました。で、「高知県の遺跡から出土した牛乳瓶の分類と編年」という報告を書かれたYさんが、最近鵜来島で発掘された、弊社の牛乳瓶を持ってきてくれてたのでありました。
これ。
ひまわり南海乳業時代のもの。
ひまわり乳業と土佐市の南海乳業が合併したのが昭和48年で、それから約10年間、ひまわり南海乳業という社名だったので、この瓶はその頃のもの。いいですね、男の子と女の子。
昔、弊社の瓶入り牛乳は、180mlだった。いわゆる一合瓶。
Yさんの報告書にもああるけど、昭和45年に「学校給食標準食品構成表」で学校給食牛乳は200mlとされたのを受けて、200mlビン牛乳が一般的になったという歴史。
充填機の調整はややこしくて、瓶の胴回りと瓶の高さは、変えたくない。そこで、それまでなで肩だった瓶の、肩の部分を膨らませて、こんな形状の200mlの瓶ができた訳です。胴回りと高さは、180瓶と一緒。
それにしても鵜来島。
なんの発掘なんでしょうかね。元々、宇和島藩に属してたけど、明治になって高知県になった鵜来島。太平洋戦争で、米軍上陸本土決戦に備えた要塞化が図られようとしてた島でもあるので、その戦争遺跡の調査かも知れません。
ウィキを見てみると、商店はなくて飲み物の自販機が1台とのこと。今は牛乳も売ってない訳だ。この牛乳瓶は、学校給食で使われたものでしょうか。たぶん、そう。
現在の人口は30人にも満たないけど、かつては小学校も中学校もあった、鵜来島。この牛乳ビンは、子供の声が響いてた鵜来島の痕跡と言えるのかも知れない。
瓶の図柄が男の子だ、女の子だ、といって騒いでた風景が目に浮かぶ。
昨日の写真を見てみると、昔の牛乳瓶のは5勺も多かったこと、わかります。一合180mlの半分だから90ml。牛乳は、ガブガブ飲むものではなかったことが、この瓶の大きさからもわかるね。
そうか。今、菜食健美とかは90mlビンだけど、これは5勺瓶の後裔になる訳か。
なんで、90mlというサイズのビンがあるのか。それは、かつて5勺瓶が存在したから。そういうことか。
いや、今まで深く考えてなかったけど、菜食健美90mlビンのルーツは、昨日の5勺瓶ということになるのである。なるほど。世の中の現象、形には、理由、ルーツがあるのだ。
ルーツと言えば、この左手の写真。薄緑の瓶。昨日の牛乳瓶のいくつかと同じく、枝川の西浦遺跡で発掘されたもの。これにはエンボスで「神戸鉄道局」「御茶」「定價七銭」と、右から書かれているのである。そう。戦前、汽車で売られてたお茶だ。左端のが、コップにもなる蓋。これ見たら思い出すよね。昔、汽車で売ってたお茶。僕らの頃はもうプラスチック素材になってたけど、こんな形状で、蓋がコップになっていた。あのお茶のルーツは、こんなんだったんだ。すごい。
ああ。世の中は遺跡遺物に満ちている。