野中兼山、岩を砕く〔6049〕2019/11/07
2019年11月7日(木)晴れ
今朝は高知。5時から仕事してます。
昨日の朝は、高松市内から屋島のてっぺんまで走り、登山道を駆け降りました。その距離と標高差を高知に置き換えたら、中の島の自宅から秦泉寺、そして正蓮寺の坂をゴルフ場まで駆け上がり、山道を秦泉寺まで駆け下ってくる、といった感じになりますね。
そう考えると、朝っぱら、仕事前に何やってんだか、という距離と標高差。出張の朝ならでは、だね。普段の朝は、早朝出勤なので、そんなことできませんきに。
そうそう。昨日の花崗岩と安山岩とメサの話、この、20万分の1シームレス地質図で、屋島の界隈を拡大して見てみるとよくわかるよ。圧倒的花崗岩地帯に、火山噴火の溶岩が貫入して安山岩になり、メサやビュートになってる様子ね。山麓から屋島山頂へ向かうと、花崗岩の斜面が安山岩の固い石に変わるのが、よくわかる。興味ないですか?
もし、秦泉寺から正蓮寺の坂を駆け上がったら、魅力的な蛇紋岩地帯を抜け、小坂峠はペルム紀に形成されたチャート地帯であることを体感できる訳だ。興味、ないですか?
さて。写真は、朝6時の物部川。昨日の屋島は、白村江の戦いで敗れた中大兄政権が、唐・新羅連合軍が攻め込んでくるかも知れん、ということで急いで整備した砦でした。緊迫の日本列島。でも、太平洋岸のこの界隈は、そんな情勢とはあんまし関係なく過ごしてたんでしょうかね。
この写真はかなり明るく加工してます。実際は、もっと暗い朝の6時。上岡八幡宮さんが鎮座まします上岡山と、その向こうに三宝山。上岡山の西麓を流れる物部川。
この、物部川西麓の流れは、野中兼山さんによって開削されたものと言いますよね。野中兼山さんの時代の前は、物部の流れはどうだったのか。
ここに一本まとまった流れではなくて、たぶん、この扇状地を、幾筋も、網の目のように流れてたんではないだろうか。洪水のたびに、流路を変えて。
兼山さんは、ここを開削して、まっすぐ南下する流路をつくった。それが、今、僕らが見ている物部川。それ以前には、あの上岡山の東側を通って吉原の方へと流れる「上岡川」があったと言います。
地理院地図を見てみよう。
う~ん。
地水地形分類図を見ると、上岡山の東には、旧流路、ない。でもたぶん言い伝えの方が正しくて、現在も水路がある上岡山の東側を、かなりの水量の水が流れてたんだと思います。
この地点は、物部の流路ではなかったのか。そうだったとしても、もっと浅くて細い流路だったのか。この写真でもわかるように、三宝山から稲生の石灰山につながる地層は、ここで物部川を横切ってます。20万分の1シームレス地質図でもわかりますね。
今も川に残る、石灰岩質の岩の列。その岩列が、物部の流れを遮っていたのかも知れません。野中兼山は、その岩列を砕き、川底を掘り下げ、ここを物部の本流にしたのかも知れない、などと妄想すると、やはり、当時の土木技術の水準の高さと兼山先生の意思の強さに圧倒されますよね。
興味、ないですか?