堀川今昔の今昔〔6005〕2019/09/24
2019年9月24日(火)雲は多い
昨日は台風一過の良いお天気でした。一気に暑さが戻った感じ。でも朝晩は涼しく、今、会社の僕の部屋の外からは鈴虫の声が響いてます。夜が明けるのも遅くなってきました。もう、秋分の日過ぎた訳で、これからどんどんと日は短くなってゆく。空気が澄んでゆく。
写真は今朝、4時前の堀川。出勤途上、大鋸屋橋の上から、東方向を撮影してみました。右手は中の島、左手は農人町。
ここから見える風景も、少しづつ、変わってきました。
2003年10月。今から丁度16年前の風景。五台山には二本のテレビ塔。左手のビルの向こうには、現在建ってるマンションが、ない。
その翌年3月には、明治後期にこの場所から撮影した写真と並べて比較してます。堀川今昔。で、あの写真の「今」は、今から言うと15年半、昔。あれから両岸の桜も大きくなりました。新しいマンションも増えました。
その翌年、中の島の道を登校するJr.1号2号の姿が写った写真。そんな時代もあったあった。ありました。新堀小学校2年生と5年生の少年たち。今は大学4年生と社会人。思えば遠くへ来たもんだ~
「堀川今昔」を見てて思うこと。ここは、高知の城下の物流センターだった。生鮮食品を中心に、物資がここに集積され、おびただしい船が往来する堀川。そんな活気も、今は昔。
田辺島の農家であった友人は、子供の頃、田辺島から、自分ちで採れた農産物を小舟に積載して国分川、浦戸湾から堀川を遡上して九反田の市場へやって来てたそう。帰りは、いわゆる下肥を積んで、帰る。そんな時代でした。
下肥。都市は、農家の肥料の供給源。だから僕らが子供の頃は、生野菜を食べる習慣がなかった訳で、小学校でギョウ虫検査をやってたのも、下肥の影響が大きかったと思われる、あの時代。
週明けの朝っぱらから、申し訳ございません、な話題ですな。
以前、ここから、浦戸湾の遊覧船が出てました。こっから乗って、桂浜を外洋から見て、富久美味さんの裏手の浜に着岸してた、遊覧船。
でも、条例だか法律だか知らんけど、この場所で乗客が乗り降りする営業はしたらいかん、とかいうことになり、また、いろいろと問題も出てきて、なくなってしまいました。
こないだ走って桂浜行ってましたが、桂浜とここ、船で往来できたら本当に便利だと思います。ここははりまや橋からも近い。とても良い観光ルートにもなるだけでなく、寄港地を工夫したら通勤通学にも使えるのに。
などと、ここからの美しい風景を見るとイラん妄想を暴走させてしまうのが悪い癖。
それはともかく、週明けの爽やかな、朝。台風も過ぎました。夏の名残を楽しみながら、仕事仕事。