大湊のHくん〔6006〕2019/09/25
2019年9月25日(水)晴れ
良いお天気。
昨日、走って帰りました。朝晩の過ごしやすさよ。昨夜は、会社から西進し、潮見台ニュータウンを一気に駆け上がったのですが、苦しくなかった。こないだまでが嘘のように、一番高いエリアまで駆け上がっても苦しくない。以前は、一番高いところに自転車を置いてて、そっからは自転車で帰ってたけど、昨夜はそのまま再び走って駆け下り、パワーセンターまでグングン走ったのでした。それでも、そんなにふうふうゼエゼエならない。そんな季節になりました。
さあ。どうやって負荷かけよう。やっぱしふうふうゼエゼエしたいですきんね。
今朝は、ひと仕事済ませてから会社を出て、前浜を経由して高知市内へ。
ここは前浜の、寺家。スマホに表示されてるのは、地理院地図の治水地形分類図。青丸の場所が、現在地。
この治水地形分類図はすごい。
黄色い部分は扇状地の微高地(自然堤防)で、黄色に、半円の模様がついてるのは砂州、砂丘。海岸沿いに東西に伸びてるのは、砂丘だけども地学用語で言えば浜堤。
で、青の横縞は旧河道、緑色は氾濫平野の後背湿地。
僕が立ってるグレーの横縞のところは、浅い谷。
さて。
こないだご紹介した浜窪タワーは、このすぐ東で、中世の頃には、この東西には結構な集落が形成されてたらしい、と書きました。物部川本流の河口が、浜窪の東にあり(現在は水門)、重要な港湾都市があったかも知れない、という訳だ。どうやら、物部川流域だけではなくて、土佐の各地から木材が集積されたりしてた形跡もあるんだとか。
そういった港湾都市がここにあったから、細川氏は、田村に守護代屋敷を置いたのではないか、と、歴史オタクのJr.2号も妄想してる訳ですな。妄想力は、大切だ。
ここは、紀貫之の土佐日記でも有名な場所。浦戸をでた貫之一行は、大湊に泊まったのでした。その大湊はどこか。このスマホの十字の場所に、大湊公園というのがあって、紀貫之ゆかりの地とかなんとか、碑みたいなのがあったような気がします。覚えてないけど。
平安時代。物部の河口から入った静かな入り江が、大湊であっただろう。
すると、これを見たらわかるように、緑の後背湿地がラグーンで、十字の場所あたりに港があっても、確かにおかしくはない。
でもね。都との往来をしたくらいの大きな船だと、そこまで入っていけたのか。それよりも、この今立ってる場所あたりか、この東の、河口の土手の北側みたいな場所を入江とした方が、合理的だったのではないか。などと妄想してみました。大湊は、ここであってはいかんのか?
写真右手、向こうに伊都多神社の森。港を見下ろす高台の重要な場所。
左端に写ってるのは、高校の同級生Hくんち。Hくんは、医者。ゴルフでは、若い頃高知県代表にもなった腕前で、歌手としてレコードも出したHくんは、どういう訳か、医者。高知医科大学を卒業した、整形外科医。
ここが大湊だったとしたら。港湾都市だったとしたら。Hくんみたいな人物が相応しい。港の親分、みたいな人物だから。ちょっと、妄想が過ぎましたかな。
でもね。妄想力は、大切です。