中野団地の土〔5977〕2019/08/27
2019年8月27日(火)降ったり止んだり晴れたり
昨夜、走って帰ったので、今朝は自転車。朝起きたら雨が降ってて、ビビりました。ビビっても仕方ないから、そんなに降ってもなかったので、Tシャツ短パンで自転車漕いで出勤しました。合羽着ても、どうせ内側から汗ビショになるし、雨に濡れるのと汗で濡れるのなら、雨の方が臭くなくて良いよね、という判断で、濡れそぼって自転車踏んできました。ああ。気持ちよかった。
写真は、朝5時頃の介良。左が介良富士で、右手が中の団地。この道路、西の方はまだ工事やってますが、まあ長いことやってますな。
10年前。2009年11月に撮影したのがこの写真。あの頃、この道は狭かった。
その翌年撮影したのが、これ。この写真、今日のと同じような場所から撮影してるのが、右手の家の形でわかります。10年かけて、これだけ風景が変わりました。
この右手は中野団地。
現在の航空写真は、これ。介良野の西が中野で、その中野にできた、団地。
1970年代の航空写真を見ると、今と変わらない風景。その頃からあった、中野団地。
1960年代の航空写真だと、これ。団地用に土地が造成されてるのが、わかります。
ではこの団地の形状は、いったい何に由来するのか。何によって規定されてるのか。
1948年5月に米軍が撮影した航空写真。高解像度で拡大して見るとよくわかるけど、団地に造成された土地は、香長条里を無視した田んぼ。これはあれだ。ここは湿地帯だ。だから、条里制が布かれた当時は田んぼはなかったんだ。
ここで川が蛇行して入り組んでる。
そんな土地をどうやって造成したのか。
この1970年代の航空写真に、その答えがありました。中野団地の南。介良富士の北斜面。山が抉られてます。エグられてます。僕が想像するに、この抉った土を使って造成したのが、中野団地なんだろうと思う。そう思って1960年代の航空写真を見ると、山、抉り始めてますよね、少し。
現在、山の北側の抉った跡には草木は生えてきてるけど、やはり抉った痕跡は今も歴然。
中野団地は、介良富士の一部でできている。
太古の物部川が蛇行し、湿地帯をつくり、そこに神の山、介良富士の一部が盛られて、新しい団地になった。
そして道路は広くなり、どんどんと風景は変わってゆく。
でも、今の風景は、太古の昔からの歴史の文脈の中に、あるのでありますね。