板垣退助生誕地〔59〕2003/06/14
2003年6月14日(土)雨時々曇り
高知のお城下は、江戸時代、その人の身分によって居住エリアが分けられていました。
武士の中でも身分の高い「上士」は、市内中心部(現在の堀詰から升形、江の口川と鏡川の間)の「郭中」というエリアに住んでおりました。その東の「下町(しもまち)」には商人が、西の「上町」には郷士などの下級武士や武家に使われる奉公人等が、主として軒を並べちょったそうです。
写真は「郭中」中島町界隈。左隅の碑は、ここが板垣退助翁の生家であることを記念したものです。ご存じ自由民権運動の立役者で、明治政府でも活躍します。ここから南へ100m程のところに、[18]でもご紹介した後藤象二郎氏の生家、東側の何軒か隣に、自由民権運動家で後に衆議院議長を4期も務めた片岡健吉氏の生家がありました。
明治維新後、中央で活躍した土佐出身の人たちは、この界隈、つまり「郭中」で生まれた「上士」、つまり身分の高い武士の家系の人が多かったんですね。
ところが、幕末から維新にかけて活躍した人たちには身分の低い武士が多く、住まいも「上町」や、その北側の「小高坂」などが中心となります。坂本龍馬も「上町」出身の身分の低い「郷士」でした。変革期には身分の低い人たちが活躍しますが、多くはその後の時代まで生き残ることができず、新しい体制が出来上がった後は身分の高かった人たちが活躍する、という、古来中国なんかでも繰り返されて来たパターンを踏襲することになりました。