直線道路と軍隊〔5878〕2019/05/20
2019年5月20日(月)小雨
昨日、日章のこと、書きました。日章という地名のそもそも。そして、日章村は、昭和17年から昭和31年まで存在した村であったこと。
日章村は、三島村、立田村、田村が合併してできた村。その直接の要因は、海軍高知航空隊に、あります。戦争が始まり、海軍は、高知の太平洋岸に航空基地と滑走路を建設することを計画。そして。
三島村で強制退去させられた住民は263戸、1500名。接収された土地は2,184反。
軍隊の要望なので、否も応も、ない。
野市の上岡山と双子のような山だった室岡山、通称命山も、その際に取り崩された話は、幾度も幾度も書いてきました。
軍のやることって、ものすごく机上の計画的なんですね。当時の秀才が集まった軍の士官たち。全国の勉強ができる子供たちの中でも、特に優秀な者が集まった陸軍士官学校と海軍兵学校。職業軍人になりたかった人も居たし、勉強はできるけど、家が貧しくて旧制中学や高等学校へ進学できない、という子供も、集まりました。授業料がいらないので。
そしていわゆる秀才タイプが出世し、士官となって様々なことを計画立案実行していった、昭和の軍隊。
シノゴノ言うてられんという事情もあったと、思う。戦争ですきんね。
上に書いた「机上の計画的」というのは、この航空写真を見て思うこと。これは、僕が生まれた頃の南国市物部界隈。高知空港と高知大学農学部、そして高知高専。
空港周辺以外は、律令時代の昔から形成されてきたという、いわゆる香長条里が見てとれます。南北の線が、東へ10度ばかり振れた線に添い、田んぼや街の区画ができあがっているのが、香長条理ね。
その条理をまったく無視して、海軍の基地と飛行場はつくられた訳だ。
どうやって。
たぶん、秀才の士官が、地図に三角定規を当てて、計画したんだろう。と、思わせるような、そんな航空写真に見えませんか?
四角い敷地を、定規を引いて確保する。そしてその四角形の対角線に、滑走路を建設する。
その海軍航空隊の基地、飛行場へ、物資や人を輸送するのには、土電安芸線を走ってた汽車が活躍したんだろうと、思います。飛行場ができたときに、日章駅も、つくられました。広い広い敷地の日章駅。そして、その日章駅から飛行場まで物資や人を運ぶ軍用道路が建設される。それが、この道。
今朝の写真は、弊社の前から南向いて、ズームで撮影したもの。この突き当たりは、ここから2.1km先の、空港入り口。そこまでまっすぐに見通せるということは、この道が、直線道路であることが、わかります。
そう。この直線こそ、この道が軍用道路としてつくられたことの、証。なんせ、三角定規で計画立てるから。
この、会社の前が標高13.6m。2.1km先の突き当たりは標高5.6m。2.1kmで8m下る、直線道路は、軍隊の痕跡と言えるのかも知れません。
日章駅から日章の飛行場へとつながる、道。
日章という地名が、当たり前のように使われてた僕らの子供時代。それは、昭和49年まで土電安芸線が存在し、日章駅があった影響も大きいのかも、知れません。
さあ。月曜日。張り切って仕事を始めよう。