「何の伝手もないままに派遣」から始まった〔5818〕2019/03/21
2019年3月21日(木)雨
お彼岸。この、彼岸という言葉、好きです。此岸と彼岸。こちら側の世界とあちら側の世界が繋がっている、という感覚。とても大切な、感覚。
そんなお彼岸、高知県東部へ来てます。田野町大野台地で雨の中、墓参。山用のレインウェアというのは秀逸で、結構本格的に降る雨の中、とても快適に掃除することできました。今の山用品、すごい。濡れない蒸れない動きやすい。
せっかくなので、田野町の「たのたの温泉」に車を停めて雨中RUNと洒落てみました。そう。僕は雨の中を走るのが大好きだ。皆様ご承知の通りですが。
奈半利川の西岸を北上し、北川村。二つ目の橋を東岸に渡り、今度は南下。そして国道から道を逸れ、一気に駆け上がってきました。モネの庭。
雨の中のモネの庭。とても良かった。本当に、良かった。
やはりモネの庭の愁眉は、ここ。フランス、ジヴェルニーにある、モネが過ごした庭と家を再現したという、この池と庭は素晴らしい。晴れてるとかなりの人出になるのだが、雨だと、とても静か。池の周囲を歩いているのは、庭のメンテナンスをする係員ばかり。でも、雨の庭の美しさよ。ああ。こんな素敵な風景を独り占め。セルフタイマーで撮影しました。僕が写ってるの、わかりますでしょうか。
以前にも書いたことあるかも知れんけど、この「モネの庭」の成り立ちは、すごい。
そもそも何で、こんな場所に、世界で唯一「モネの庭」と称することを許された、こんな庭園が存在するのか。ホントに、考えられんような。「そもそも」。
きっかけはバブル。あの、騒々しいバブルの時代に、北川村は村おこしの一環としてワイナリーの建設を計画する。本当に、バブルの頃に全国で発想された、バブリーな計画ね。しかしバブル崩壊。さあ。途中まで進んでしまった計画、どうする?
そこで村の人たちが考えた。バブリーな話ではなく、この美しい自然を利用した、でも他にない、何かができないだろうか。そして、フラワーガーデンという発想にたどり着く。そして。あろうことか、フランスの、モネが半生を過ごした庭を、そっくり北川村に再現しようと考えた訳だ。誰が考えたんだろう。考えた人、すごい。本当に、すごい。
でもすごいのはここからだ。モネの庭のホームページに「モネの庭ヒストリー」というページが、ある。そのヒストリーの書き出しは、こう。
「1996年 秋 村は何の伝手もないままに担当者をフランス・ジヴェルニーへ派遣。コーディネーター兼通訳の円山和子女史と出会い、モネの庭責任者、ジルベール・ヴァエ氏を訪問。当初は会うことも叶わず、熱意を込めたチャレンジを始める。」
こんなこと、行政がやるんですきんね。こんな始まりのモネの庭。
しかし、村の熱意が通じて、翌年からクロードモネ財団が動き始める。そして、あんなことやこんなことがあって、遂に2000年、オープンに漕ぎ着けたという物語。
この、雨の中のモネの庭を楽しみながら、「人の熱意」の凄さを噛みしめる。
この場所、地理院地図の航空写真では、こう。この十字の部分の斜面、今シーズンは、見事なチューリップ畑になってました。
モネの庭ができる前は、こんな山。ここに、美しい庭園ができることになるなんて、誰が想像しただろうか。
大切なのは、熱意。思い。
そんなことを考えながらたのたの温泉まで駈け下り、温泉につかって帰ってきました。
雨のお彼岸、堪能。