国澤地蔵さん、つながる想い〔5751〕2019/01/13
2019年1月13日(日)晴れ
昨日の雨が嘘のような良いお天気。今日は成人式の式典という市町村も多いので、晴れて良かった。高知の市内も、朝からめかしこんだ若人たちが晴れがましく歩いている。良い、成人式になるといいね。
そんな若者の邪魔にならないよう、朝は街中を走ってきました。江ノ口川北岸をずうっと西へ走る。今日は高知城のまわりを走り、一気に二の丸まで駆け上がろう。そんな魂胆の日曜日。
普段あまり通らない道。もうね。色々と楽しすぎてなかなか前へ進めない。興味深いもの。目新しいもの。迂闊にも知らなかったもの。などなど。
ここも、今朝まで知らんかった。国澤地蔵さんというんだって。
高知城の北側、江ノ口川北岸を西進する。寺田寅彦さんのお屋敷前を過ぎて、桜馬場の南北の通りへ出るとこの、角。民家の塀の中みたいになってるので、今まで気付かんかったのか。
ちゃんと、説明板が立ってました。その説明板の後ろ側には、古い古い石仏。祠。かなりの古さの五輪塔。
櫁がいけられ、今も地域の方々に大切にされていることが、よくわかります。
説明板によりますれば。
と、思うたけど、最初の方の文章が少し掠れて読めない。そこで、我らが民話の先生、市原麟一郎先生の本を何冊か探してみたら。ありました。「高知ごりやく散歩」。平成10年に発行されている、高知市内の神社や祠、お地蔵さんなどを訪ねて調べ、ご紹介している本ね。
それによると、前に法務局があった場所(寺田寅彦さんちの近くね)に、国澤さんという家があった。江戸時代の話だから、武士ね。で、その家の祖先が四国遍路に出た際、途中で、川中に埋もれているお地蔵さんを発見する。「必ずお連れして、キチンとお祀りします」と約束したものの、違うルートで土佐へ帰った為に、果たせなかったのでありました。すると。毎晩お地蔵さんが夢枕に現れるようになったんだって。そこで国澤さん、北山を越えてその川を再訪し、約束通りお地蔵さんをお連れ申して、屋敷の中でお祀りしたんだそう。すると、そのお地蔵さんは、必ず願い事を叶えてくれるありがたいお地蔵さんになりました。めでたしめでたし。
ところがその「高知ごりやく散歩」には、そんな内容が書かれた説明板が以前はあったけど、字はすっかり消えてしまい、東の隅に追いやられている、と書かれている。すると現在の説明板は、その後で再建されたもの、ということだ。
なるほど。と思いながら説明板の後ろへまわると、裏側に何か書いてあるぞ。
「通りすがりに足を止め お地蔵様に憩うようになりました。二十年位以前の事だったと思います。そのうち、人づてに由来を教わり不器用乍ら立て札を自作しました。それも年月と共に朽ち読みづらくなってしまい、今回は大工さんに作ってもらい 再度、私共が代筆させて頂いたのです。お陰様で八十歳の現在、家族共々無事に過す事が出来、感謝いたして居ります。
平成二十一年七月 再製作 」
岡崎(ほんとは立つの方の崎)昭平 洋子
と読めますが、「昭」の字が消えかかってて、違うかも知れません。
なんか、感動してしまった。
江戸時代。最初の偶然の出会いから、想いがどんどんと受け継がれていっている。これはいったい何なんだろうか。僕らは、こんな人たちが暮らす世の中に生きているという、幸せ。
説明板には、この国澤さんの祖先が長宗我部元親家臣の国澤孫左衛門という人物で、江戸時代になって江ノ口川北岸に住むようになり、その後国澤家が上京してからは桑畑の中にお地蔵さんが残されている、という状況だったと書いてます。
戦後の都市計画で、そのお地蔵さんや、近在に鎮座していたお地蔵さんがここに集められ、このようにお祀りされるようになったとのこと。
最初は国澤地蔵さんだけだったけど、ここに4体のお地蔵さんが鎮座ましますのには、そんな理由がありました。もはや、どれが国澤地蔵さんなのかは、わからない。
でも、それで良いのだ。
偶然の出会い。いろんな人が関わりながら、想いがつながっていく。それで、良い。大切なのは、そんな想いを僕らの世代で途絶えさせないこと。せっかくだもの。
長宗我部家臣の国澤氏と言えば、現在の堺町界隈にあった国澤城主の国澤氏を思い出す。戸次川で戦死した名簿に国澤孫介という名前が見えるけど、この孫左衛門さんと関係があるのだろうか。
などという考察をしようと思ったけど、それはまたの話。
今日は、こんな素敵な人たちが暮らす世の中に生きているという、幸せを噛みしめる。