新堀小学校と新市町〔5712〕2018/12/05
2018年12月5日(水)曇り
それにしても、寒くない。昨日も20℃を軽く超えてて、今朝もこれまた12月とは思えない暖かさ。今、会社の部屋で、窓を開けてワイシャツ姿でこのにっこりを書いてます。
昨夜はお街に出てまして、車を置いて歩いて帰ってたので、今朝はその駐車場まで徒歩。途中、はりまや橋小学校の塀にある町名案内板を撮影してみました。この塀は、はりまや橋小学校の東側の塀。説明されている町名は「新市町」。そう。ここも「新市町」なのだ。はりまや橋小学校の西側の「新市町」を以前に紹介したことあるけど、小学校を挟んで東側もやっぱり「新市町」。
以前紹介した写真を見ると、突き当りに新堀小学校(当時)が写ってます。実は新市町は、かつては現在の小学校を突き抜けて東西に伸びる街でありました。東端は横堀で、その横堀を今もある「新市橋」で渡ると南新町。南新町の、新市町の延長線上の東西の通りを「新市町筋」と呼んでおりました。
現在の航空写真で見ると、学校を挟んで東西に伸びる通り、わかります。昭和22年に、第一国民学校と第二国民学校が合併して新堀小学校ができる。この地に。その頃の航空写真を見ると、小学校は新市町の北側にあり、東西の道路はまだつながってました。現在のはりまや橋小学校の運動場北端が、その東西の道路だ。運動場と体育館の境目。そこが、東西の道路、新市町の痕跡と言えましょう。
「新市町」は、幾度か書いてきたけど、岡豊城の城下にあった「新市町」を移設してきた町。長宗我部元親が、大高坂山にお城を築いて移ってきたときの出来事。だから、元親は、ここに本格的な城下町を建設し、キチンとした本拠としようとしていたことは、わかります。
その後、浦戸城へと移るけど、最終的には、広さや利便性から、大高坂山中心の都市を考えていたのは間違いないと、思う。
そんな訳で新市町は、高知市中心部の町の中でも、一番古い町の一つと言えましょう。一豊がやってきて、つくった町ではない。それ以前、元親の時代につくられた「新市町」。この説明板には「櫛屋」「糀屋」「酒屋」などの商人街であったと書いてます。で、土佐神社で10月初旬に行われる「千部経法要」の縁日に市をたてる特権を持っておったそう。露天商から芝銭を徴収していた訳だ。岡豊時代に与えられておった特権を、ここに移ってきてからも持ち続けておりました。山内の時代になってもね。でも、さすがに一宮の人たちからクレームがついて、17世紀中頃にはその特権もなくなったと言います。利権商売は続かない。そんな特権、早く手放して良かった良かった。
その後、城下を代表するような墨職人や蒔絵職人を輩出したりしております。
「市町」というくらいなので、もちろん「定期市」が立っておりました。元禄の頃には毎月12日と27日。幕末頃は27日。明治になって、26日になってまたすぐ27日に戻る。毎月27日の「市」は、いつ頃まで残ってたんだろうか。昭和になってもやってたんだろうか。
昭和22年に新堀小学校ができ、その後、学校拡張で道がなくなって、市もなくなったんだろうか。
元親時代、大高坂山城下の中心であったであろう、新市町。そんな町名を、高知市民が口にすることもなくなりましたね。