後藤象二郎、豊ノ島〔5699〕2018/11/22
2018年11月22日(木)雨
なんとなく冷たい雨が降る朝。写真は、今朝5時前の東九反田公園。立派なトイレの脇に立てられた、開成館の説明板前。
幾度も幾度も書いてきたように、ここには幕末、土佐藩の殖産興業拠点「開成館」が置かれた。浦戸湾から堀川へ入ってくる入り口。水運が物流のメインステージであった時代、高知の城下の表玄関とも言える場所。開成館には「軍艦局」とか「勧業局」とか「火薬局」とか、色んな部局が置かれたけど、特に重要だったのは「貨殖局」。外貨を稼ぐ部局ですな。
その貨殖局では大阪と長崎に出張所が置かれ、長崎は「土佐商会」となり、後藤象二郎が活躍し、岩崎弥太郎がその才能を開花させ、明治になって三菱へと育っていったのはご承知の通り。
いや、後藤象二郎は、財政的には活躍どころか危機をもたらしたりした訳だが、岩崎弥太郎や盟友の板垣退助に助けられたりしながら、その独特の才能を発揮していった人物。
後藤象二郎が明治30年に亡くなった時、その告別式で板垣が追悼の辞を読んでます。これは、ぜひ、自分にやらせてくれと板垣側からお願いしたものらしい。その追悼の辞に、後藤に対するこういう評価がでできます。
「総じて後藤君は創業の技倆あり、或は守成の事としては足らざる所あるが、君は大事を断じて能く行ふの技倆は決して凡俗の及ぶ所でないと思ひます。又、後藤君の人と為りは、自ら過去の功績を忘れ、又能く人の旧悪を忘れたので、是即ち君が創業の技倆ある特色であります。又、彼の航海通称其他、凡て新事業に後藤君が先鞭を着けし者は沢山であります。」
後藤象二郎の「人間」を語って余すところがない。幼馴染であり盟友でありライバルでもあった板垣の、愛情あふれる追悼文ではないか。そう。後藤象二郎は、異才。王政復古、大政奉還に果たした役割はもちろん、その後のダイナミックな活躍そのものが後藤象二郎だ。自分の功績も忘れるけど、人の旧悪も忘れてしまう、後藤。開成館がここに置かれたのも、後藤の尽力があってこそ。
この説明板にある、開成館当時の配置図。これに、松の木が描かれている。
現在も、ここ東九反田公園には、この写真のように松の木。絵の松と実際の松を、こうやって並べて見ると、同じだ。この松の木の枝振り、曲がり方。同じだ。
この絵の松は、あの松を描いたものなのか。そんなことを想像すると、今も目の前に後藤象二郎が現れそうな気がする。
後藤象二郎も、こないだ書いた板垣と同じく、こよなく相撲を愛した。文明開化の波の中で、相撲などやめてしまおうという議論が強かった中、相撲を「国技」として発展させることに尽力した、後藤象二郎。
昨日、十両に復帰した豊ノ島関が、勝ち越しを決めた。すごい。
人間、辛抱と努力だ。
後藤には辛抱と努力のイメージが薄いけど、新しい時代を創出する能力は、あった。それぞれの立場で、それぞれ、一生懸命生きる。