江戸時代の食品スーパーみたいな場所〔5698〕2018/11/21
2018年11月21日(水)曇り
こないだ、弘岡町の恵比寿さんのこと、書きました。で、今朝、弘岡町の南、東唐人町の土手の上の道を歩いて出勤してたら、眼下の弘岡町にお堂を発見。こないだ、なんと見逃してた、お堂。
早速土手を降りて行ってみると。おう。これだ。こんなに存在感のあるお堂、こないだどうして見逃したのかは謎。
その佇まい、雰囲気、配置は、まさしく恵比寿堂だ。ここが、春野の弘岡村ゆかりの恵比寿さんだ。こないだは嘘をつきました。ごめんなさい!
そう。このにっこりひまわりは、時々嘘つきになるので気を付けよう。
そんな訳で、改めてお参りし、写真撮ってきました。お堂の前には、ちゃんと、弘岡町の由来を書いた説明板。ここが、かつて、弘岡町の賑わいの中心だったのか。なるほど。
弘岡村から住民が移されて来た頃。大工や大鋸挽き、左官などの職人が多かったと言います。城下町建設の時代、そういった人材がたくさん必要だったでしょうな。新しい町を創る。どんな雰囲気だったんだろうか。
大高坂山の東側に広がる湿地帯。そこにまったく新しい町を創る。あちこちで槌音が響く、そんな風景だったのかも知れません。
大工さんや左官さんが住む弘岡町に、1659年、魚の棚ができる。現在の四国銀行本店界隈、八百屋町にあった魚の棚が、弘岡町の西橋、今の潮江橋北詰の西にできる。その影響なのか、弘岡町は食料品などを取り扱うお店が並び、お城下の台所みたいな状況へと変貌していくんですな。
弘岡町の南は唐人町で、豆腐商いのお店が並ぶ。だからこの界隈は、生鮮食料品、海産物、豆腐などなどの生活必需品が売られる食品スーパーみたいな場所になった。
城下町建設から半世紀が過ぎ、都市計画もひと段落。そんな時代に、食品スーパーみたいになった弘岡町。
北の朝倉町や浦戸町は、同じ商いでも、豪商が並ぶような町だった。
弘岡町は、魚の棚があり、生鮮食品なども売られた。
唐人町にはずらり豆腐屋さん。
同じ恵比寿さんでも、少し性格は違ってた訳だ。ここの恵比寿さんは、どちらかと言えば庶民に愛されたんではないだろうか、と、勝手に想像してしまいます。
今は昔。
早朝の弘岡町は、歩く人もなく、静かに静かにたたずんでおりました。