相撲、夢はつながる〔5697〕2018/11/20
2018年11月20日(火)晴れ
今朝、4時半過ぎの鏡川河口。鏡川大橋の下から撮影しました。左端の明るい部分は、弘化台。高知市中央卸売市場がある、弘化台。右手は新田で、その土手沿いを向こうへ行くと、東洋電化工業さんの工場の前に、板垣退助邸跡の碑が立ってます。そう。明治の元勲で、自由民権運動、自由党党首として活躍した板垣退助は、お城下一等地で生まれましたが、海上交通の便と見晴らしに恵まれたその地に家を建てたのでありました。
昨日ご紹介した最新号の「土佐史談」。そこに、板垣研究の第一人者、公文豪さんが「国技館の誕生」という論文を寄稿されております。そう。板垣退助が相撲と国技館誕生に果たした役割。今朝はその文章を参考に、書きました。
板垣退助という人物は面白い。後藤象二郎も面白いけど、板垣は、マルチな才能と旺盛な好奇心、行動力を持った人物だった。
例えば板垣の馬好きは有名で、日本での競馬発展に影響を与えている。今よりもずっと賭け事、悪所のイメージが強かった競馬を「社交上、国家経済上、国民娯楽上、至極善いものであると信ずる。」として持ち上げ、現在の中央競馬会の前身となる団体の会頭までやってるんですな。
そして、板垣といえば相撲。相撲をこれほど愛した政治家は、他に居ないと思う。現在の大相撲も、板垣が居なかったらどうなっていたことやら。
江戸時代、江戸相撲は、春夏の二回、芝神明、御蔵前八幡、茅場町薬師、そして回向院の4ヶ所のどこかで晴天10日の興行が行われておったんだそう。宗教と相撲は深い深いつながりがありました。で、回向院だけでの興行となったのが天保の頃。仮設の小屋掛け、といったもので、雨が降ったら開催できん、という興行だった。明治になってもその状況に大きな改善はなかった訳だが、板垣らの強い働きかけで、その回向院に常設相撲館を建設しよう、ということになったのが日露戦争に勝った頃。
そして、あの東京駅で有名な辰野金吾とその弟子が設計して、円形の、巨大な相撲館が完成したのが、明治42年のこと。
収容客数は、なんと13,000人。すごい。当時は立ち見も許されてたので、実質は20,000人くらいが観れたとも言いますきに、すごい。ちなみに現在の国技館の収容人員は11,098人となってるので、今のより大きかった国技館。
板垣は「尚武館」という名前にしたかったようだが、作家の江見水蔭が「相撲は日本の国技なり」と寄稿したのに年寄尾車(当時)が着目して「国技館」を提案、採用されたんだって。なるほど。
その国技館は大正6年に焼失してしまう。再建されたけど、関東大震災でまた被災。またまた再建されたものが、戦火をくぐり抜け、蔵前国技館に相撲が移ってからも日大講堂として活用されて昭和58年まで存在したんだそう。おう。僕が東京で生活していた頃ではないか。まだ、あの頃、あったんだ。
日大講堂では、輪島功一の世界戦とかが行われたので、覚えてますよね。
ご承知の通り、僕らが子供の頃の相撲は蔵前国技館。今の国技館ができたのは昭和60年。
回向院の、昔の国技館跡地は、今は「両国シティコアビル」になってて、国技館時代に土俵があった場所に円が描かれて往時を偲ばせてくれる。痕跡学会会長としては、もちろん、現地確認してます、はい。
板垣は郷土出身力士の応援も、もちろん精力的にやった。
この写真の向こうにあった自邸には土俵をしつらえ、そこには多くの相撲取りが参集する。「新田の相撲部屋」とも呼ばれたとか。そこで頭角を現し、大相撲入りしたのが初代海山太郎。友綱親方ですな。そして友綱部屋から高知出身、2代目海山太郎が生まれ、彼が二所ノ関部屋を興し、土佐出身の大横綱玉錦を育てる、ということになる訳で、板垣の功績は大きい。本当に。
十両に復帰し、昨日の時点で6勝3負と頑張る豊ノ島関。その豊ノ島関が昇進していく最中に書いたのが、このにっこりだ。11年前。
思いは受け継がれ、つながってゆく。そう。夢は、つながる。