伯耆の国、船上山で歴史を偲ぶ〔569〕2004/11/05
2004年11月5日(金)晴れ
今日は出張で鳥取。昨夜遅く米子へ着きまして、駅前で泊まっちょりました。早朝5時半から走り始めまして、米子市内から国道9号線を西へ。島根県との県境で引き返してきました。と、申しましても、すんぐなんですね、島根県。米子は県境の街でした。市内では、米子城址の横にある飯山城(いいやまじょう)址という小山に駆け上ってみました。伯耆と出雲の境なので、古来砦が築かれてあまたの攻防戦が繰り広げられた山だそうです。1603年の米子城騒動では、主君に暗殺された家老横田氏の一族が反旗をひるがえし、この飯山にたてこもって激しい戦いを繰り広げました。
この時大活躍した横田方の剣豪が柳生五郎右衛門。ご存知柳生宗矩のお兄さんなんですね、これが。
で、今日は、少しだけ時間があったので、船上山に行ってみました。どうしても一度行ってみたかった所です。昔々、吉川英治さんの「私本太平記」というのを読みました。そのなかに、後醍醐天皇が、流されちょった隠岐を脱出し、地元の悪党名和長年に助けられて船上山に仮御所を営んだ話が出てきます。南北朝動乱前期の大きな舞台となった山なんですね。
小説で想像しちょった船上山は、もっと海沿いの、先のとんがった山でしたが、行ってみますと全然違いました。写真のように、高さ100mを越える露出した岩肌の上に、文字通り船の上に乗っかる様に山が横たわっちょりました。太古から霊山として振興され、山上が広く、非常に攻めにくい要害の地やった訳で、ここに行在所をつくったのが納得できました。やっぱし現地へ行ってみんといかんですね。歴史は現地で肌に感じるのが一番です、はい。
この山は、標高は615m。岩肌を落ちる滝が美しく、早くも紅葉している光景は、本当に神秘的ですね。
後醍醐天皇は、ここで鎌倉幕府の軍勢を破り、80日間滞在した後、各地の悪党に助けられながら京へと上っていったのであります。建武の新政の原点がこの船上山やった訳です。