帯屋町と商人〔5685〕2018/11/08
2018年11月8日(木)晴れ
だいたいからして、このにっこりひまわり、最初から内容を塾考して書く、ということが殆どない。ないです。取り敢えず書き始めてみて、書き進めるうちになんとなく文字数を消化している、というケースが多いのである。のである、などと偉そうに書いてる場合ではないけど。
今朝も、そう。
今日は出張で、朝6時高知駅発の特急南風。高知駅へ向かう途中、特に目的もなくなんとなく撮影したのが、この写真。発車までそんなに時間が無かったので、通りがかりに急いでパシャ。さて。何を書こうか。
アーケードに書かれているように、ここは帯屋町1丁目。いや、帯屋町2丁目の東端に立って、1丁目方面を撮影している、というのが正しい。言わずと知れた、高知一の繁華街。地方都市の例に漏れず、郊外型のショッピングセンターにお客を奪われ、通行する人の数も減ってきた中心商店街。でも、どうやら減少も底を打ったのか。打ってないかも知れんけど、打ってないのかも知れません。でも、明らかに、人の流れ、動きが変わってきたのは間違いないっすよね。
なんと言うても、高齢化社会。高齢化社会ということでは日本の最先端を突っ走る、高知県。その中心、高知市の中心商店街は、これからの日本を占うのにとてもとても重要な場所だと思います。
最近増えているのが、街中の、マンション。高齢になると、車でショッピングセンターへ買い物に行く、というのも億劫。歩くの、しんどいし。
でも、賑わいともなんとなく関わりを持っていたい。
そこで、街中のマンションに住む。買い物、賑わい、文化活動にはとても便利だから。
帯屋町も、最近、2丁目が元気だ。かつてダイエーがあった跡に、一階が本屋さんとコンビニ、2階が飲食店など、その上がマンションという建物ができた。その隣にはスタバ。スタバがあるビルのオーナーは、地元で事業を営むO君、O君は小学校の同級生だけども、彼が頑張って、スタバを誘致してきました。それにより、人の流れ、明らかに変わった。偉いぞ、O君。やはり、地元が頑張らんとね。大手商業施設は、ガリバーのようにやって来て地元の産業に多大な影響を与えるけど、地元の意向都合とは関係なく撤退して巨大な屍を晒し、甚大な影響を後々まで引き摺っても知らん顔だったりしますきんね。
帯屋町が商店街になったのは、戦後。それも、しばらく経ってからだ。それまでは病院などの公共施設があるような通りでもありました。僕らが子供の頃は、まだ、大きな病院がありました。
戦前は、大橋通りは生鮮食品の商店街になったけど、帯屋町は病院学校などの街でした。江戸時代、武家屋敷が並ぶエリアで、ひと区画が大きかったこともあるでしょうね。
江戸時代は、ここは、武士の中でも階級が高い人達のお屋敷が並んでました。幕末、山内容堂に引き立てられて活躍した吉田東洋さんも、この通り沿いに住んでた上級武士。向こうの、トラックが停まってる北側界隈が、吉田さんのお屋敷。お城からあそこの家へ帰る途中、この場所で、暗殺されました。
でも帯屋町という名称にあるように、商人が住んだことがある街であることは、あまり知られてません。郭中は、上級武士だけが住めるエリア、と、山内土佐藩でははっきりと定められていた。それが下士の反発エネルギーを生み、幕末維新につながった、というストーリー、なんかのテレビで見たこと、あります?
でも最初の最初は、そこまで厳密ではありませんでした。
少なくとも明暦の頃までは、たくさんの豪商が住んでいた。その中の一人に帯屋勘助という人物が居たので、帯屋町。文書によれば、ここに住む商人は、藩主後見の山内修理にお金貸したり、藩主に直接面会できる特権が与えられたりしていた人たち。身分は商人ですが、武士も、ちょっと頭が上がらんような豪商だったんでしょうな。
寛文(1662年~1672年)になると、もう、郭中には商人の屋敷、見えなくなる。時代の流れ。
上級武士のそばで、豪商が住んだ街。上級武士の武家屋敷。官公庁や病院の街。商店街。商店街としての在りようも、これからどんどんと変わっていく。
でも、400年前にここに街がつくられた時に商人が住んだように、これからも商人が活躍する街で在り続けるのは、間違いないと思う。O君みたいにね。