月の砂漠と月の沙漠〔5642〕2018/09/26
2018年9月26日(水)良いお天気
秋晴れ。涼しい朝。中秋の名月は観れんかったけど、今朝未明の西の空。ほんの少し欠け始めたお月様が美しく輝いてました。秋には月が、よく似合う。
きれいなお月様を眺めていると、ついつい思い浮かべるのが「月の沙漠」。いや、今の今まで僕は「月の砂漠」と思ってました。この素敵な童謡を作詞した加藤まさをが、砂漠ではなくて沙漠という字をわざわざ使ったのには意味があったようです。
砂漠だと、乾燥した内陸のイメージがあるけど、加藤まさをの頭にあったのは、自分が過ごしたり体感したりした日本の海岸の砂浜らしい。しっとりとした、砂。沙漠の沙には、すなはま、という意味があるんだって。だから、加藤まさをの頭にあったのは、そんな、砂浜。
でも。
子供の頃から刷り込まれている、この歌を聴いたときに思い浮かべる情景は、砂漠だ。アラビアの砂漠。砂漠を照らす月。金と銀の鞍。なんという叙情的な風景。
加藤まさをは、そもそも挿絵画家。なのに、実にうまい言葉の使い方をする。あまりにも美しい言葉の選び様。
行きました。ありました。着てました。「た」で止めることにより、なんとなく懐かしい情景である雰囲気を醸し出し、物語であることを想起させる。
鞍は、置いてある。乗せるのではなくて、置く。なんというやさしさ。
ラクダがふたつ。二頭ではなくて、ふたつ。絵画のような情景を思い起こさせる言葉、ふたつ。
挿絵画家であっただけあって、幻想的な情景が目に浮かぶような、そんな歌詞をつくりあげています。挿絵画家ならでは、かも知れません。
こういった丁寧な丁寧な美しい言葉選び。大正期につくられたこの作品が、今も多くの日本人に愛されるのは、そこに理由があると感じます。
でも、砂漠ではなくて沙漠。
そもそも加藤まさをは、海外旅行したこともなく、もちろん砂漠を見たこともない。沙漠も。なんとなく、自分の頭の中にあった沙漠への憧れのイメージを歌詞にしたのが、この歌。だから、僕がこの歌を聴いてイメージする風景と、加藤まさをの頭にあった風景は、たぶん、違う。
人は、それぞれの感覚でこの歌詞を聴き、それぞれの情景を思い浮かべる。だから、この歌は、僕にとっては「月の沙漠」ではなくて「月の砂漠」なのだ。
月の沙漠をはるばると 旅のラクダは行きました
金と銀とのくらおいて 旅のラクダは行きました
でも、僕にとってのこの歌は、こんな感じ。
月の砂漠を遥々と 旅の駱駝はゆきました
金と銀との鞍置いて ふたつ並んでゆきました
柄にもなくロマンチックなこと、書いてしまった。
月は、人を狂わせる。