省後免〔5636〕2018/09/20
2018年9月20日(木)小雨
ごめん。後免。
今日は、お仕事で本州方面へ向かう汽車。ここは後免駅。JR後免駅であり、土佐くろしお鉄道後免駅。汽車の窓が雨に濡れて風景がボヤける。でも、ここは後免駅。
後免という地名は、元々は後面であり、そもそもは御免。
この地、稲吉村と呼ばれた古くからの農村だった。そののどかな農村を商業新興地域としようと考えたのが、野中兼山。当初は稲吉新町と呼ばれた街。とにかく、そこに出てきて商売を始める者には、25代(約20平方メートル)の居屋敷を永代無年貢で与えるとし、しかも諸売買非課税、諸役も御免という、かなり思い切った優遇措置が取られたのでありました。それだけの政策により、稲吉新町は商業地として発展。諸役御免の地ということで御免と呼ばれ、そして後面になった。そして今は、後免。
藩政期の政策は、かなり上手に民間の力を活用し、小さな行政機関を目指してました。特権を与えたり、課税を優遇したりする。これにはあまり、公金が要らないし人手もかからん。そして土手を作らせ、保守させたり、商業集積地をつくっていったり、公共事業を担当させたり。それが藩政期の行政のスタンダードなやり方でありました。ここ後免も、そういった民活政策によって栄えてきた、街だ。
ごめん。
昨日も書いたけど、ここは「省後免駅」と呼ばれた時代があります。もちろん、高知と土佐山田間の鉄道省高知線が開通した際は、後免駅。大正14年12月のこと。その4ヶ月後、手結と後免町の間に開通していた高知鉄道が、後免町から鉄道省高知線後免駅につながった。それまで、高知鉄道後免駅(現ごめん町駅)は後免駅で、鉄道省高知線の駅も後免駅だったので、ややこしい。
そんな訳で、ここ、後免駅(現JR後免駅)は「後免駅」、高知鉄道後免駅を「後免町駅」と確定し、ここ、鉄道省高知線後免駅を「省後免」または「省線後免」と呼ぶようになった。のではないか。と、思う。想像です。ここに書いたことは、ウィキ「土佐電気鉄道安芸線」の記述と少し違うけど、僕の説の方がスッキリすると思いました。
鉄道省の駅を省線○○駅と呼ぶのは、結構一般的だったようだ。ちなみに鉄道省は大正9年から昭和18年まで存在しました。戦時中、運輸通信省となり、戦後に運輸省。で、運輸省が直轄していた鉄道は昭和24年に日本国有鉄道と、なる。ああ。三公社五現業が懐かしいぞ。
省後免駅は、国鉄後免駅となりました。
省線といえば省線電車。省線電車とは、東京、大阪の大都市圏を走る通勤電車のこと。省線電車は、国鉄になってから国電と呼ばれるように、なる。親しまれた愛称、国電。国鉄が分割民営化された時に、国電という名称をどうしよう、と議論され、考え出されたのが「E電」だ。
そして、すぐに使われなくなり、廃れてしまった。哀しい「E電」。
幾度もこのにっこりで書いたけど、愛称をつけるのは難しい、という典型例でシバシバ引用される、E電ね。愛称というのは、いつしか、誰が言い始めたのかわからんけど、皆が呼び親しむようになったもの。だから、それを最初から決めてしまう危険は、覚悟しておこう。どうやら「オーテピア」は成功しそうだけど。
でも、高知駅の「くじらドーム」。誰か覚えていますかな?