壱岐殿堀〔5616〕2018/08/31
2018年8月31日(金)晴れ
8月も今日まで。宿題、できたかな?
夏休みも終わり、ツクツクボウシが鳴いて、なんとなく寂しさや切なさが漂う8月31日。写真は夜明け前の堀川。鏡川大橋北詰から、西の方角を撮影しました。左手は中の島で、ここから東へ500mほど突き出した棒堤になってます。
かつて、棒堤は短くて、この辺までだったと思われます。だって、ここは三ツ頭と呼ばれたから。その向こう、農人町側に、城下三番所のひとつ、三ツ頭番所が置かれてました。松ケ鼻とも、三ツ頭とも呼ばれたこの場所。堀川と潮江川、浦戸湾がここで交わったので、三ツ頭。
堀川は、ここに城下町が築かれた際に、たぶん自然地形も利用して整備された堀。お城を取り囲むようにお堀を整備し、物流の動脈とした訳だ。
以前にも書いたけど、堀川は、三ツ頭堀とか壱岐殿堀とか呼ばれてたそう。壱岐殿というのは、山内一豊さんと一緒に土佐へやってきた酒井吉佐のこと。元々、豊臣家の家臣であったという酒井家。一豊さんの信頼厚く、一豊さんが大高坂山へお城を築いて引っ越した後の浦戸城を拝領し、山内の姓を賜ったとある。で、一豊さんの弟、康豊さんの娘を妻とする。二代藩主忠義公の、妹だ。それにより、酒井山内家は、たくさんの分家、枝族がある土佐山内家の中でも重要な一族となり、なんと幕末まで270年間、存続していくのでありました。
その初代が、山内姓を賜った山内吉佐。山内壱岐とも呼ばれた土佐藩中老が、この堀川の開削に尽力したので、壱岐殿堀。
話が長くなってしまった。
その酒井山内家は、野中兼山の失脚を画策し、兼山領地を拝領したりして上手に立ち回り、幕末まで生き残る。そのお屋敷は、追手門の真ん前。一等地。徳川で言えば御三家みたいなもんでしょうかね。
この堀川に名前をつけられた一族の末裔が住んだ場所は、今、高知城歴史博物館になっています。
で、写真。この右手に新しいビルが建設中。福留開発さんの、新社屋だ。福留開発さんの技術研究所として創られたのが西日本科学技術研究所。創業された故福留脩文さんは、日本の河川工学の歴史を変えた人物。近自然工法という、コンクリート護岸などを使わない、川の地形や岩石をそのまま利用して治水を図る工法を提議し、国交相などからも高い評価を得て、歴史を変えた偉い人物。最初はなかなか理解されなかったと言いますが、実際に手がけて成功した事例は数多い。
壱岐殿堀にも、また、これから新しい歴史が刻まれてゆく。