農人町、常盤町、松並木、桜並木〔5614〕2018/08/29
2018年8月29日(水)薄曇り
今朝、夜明け前の堀川。左手が中の島で、右手が南宝永町。現在の住居表示では南宝永町ですが、以前は常盤町という地名だった。今も、常盤保育園などの名称に残る常盤町の名残。
以前にも書きましたが、この堀川沿いには松並木がありました。その松並木に因み、常盤の松、ということで常盤町と呼ばれた町。成立は意外に遅くて天保元年(1830年)。堀川沿い北側に、商人町としてできた、と皆山集に書かれているとか。
元々は農人町の東部だ。
農人町の成立は、古い。寛永二年というから、古い。まだ徳川幕府が開かれ、山内氏が土佐へ入国してきて四半世紀、1625年のこと。二代藩主忠義公の時代。下知に、外堤が構築されました。宝永の南海地震で壊滅した堤の前身でしょうか。宝永南海地震の後、新たにできた頑丈な堤が宝永堤と呼ばれ、今の宝永町の由来になったのは、もはや常識。
で、寛永二年に、構築された外堤(潮江川と大川、つまり鏡川と江ノ口川を結ぶ堤)の内側、つまり西側の土地を、藩主のお手先農民に耕作させ、長屋を貸与して住まわせたので、農人町。何を耕作させていたんでしょうね。
元々は干潟のような土地。海水を堤で遮断し、大川や潮江川の上流から川水を引っ張ってきたのか。海水が混じらない工夫は、なかなか大変であったのではないかと思う。城下に比較的近いこの場所は、そういった農地から住宅や商家、職人の住居が並ぶエリアに変貌していきました。でも、1700年頃は、まだ、裏町には農民が住んでいたといいます。お城へ納入するものは、まだ、この界隈で耕作されていたのでしょうか。農人町の西側に、藩主の菜園所がありましたが、貞享年間(1680年代)には町屋となってます。そして菜園場と、呼ばれた。
2004年3月のにっこりでご紹介した写真に、明治後期の堀川の風景が写ってます。そう。明治から昭和前期にかけて、ここは高知城下の表玄関で、殷賑を極めました。多くの舟が往来し、川辺には大きな松の並木。明治後期には、まだ、常盤の松は残っていた。存在感抜群の松並木。
その常盤の松は、戦争で焼けたのかも知れません。今は名残も痕跡もない。ここを東へ行くと若松町ですが、たぶん、明治以降、稲荷新地が造成された後、常盤町にならって松を植えたんでしょうな。常葉の松に対して、若松。
そして今は、若松も、常葉の松も、ない。
代わりに、この堀川沿いには桜並木。今、高知市内で一番の桜の名所はここかも知れません。
お手先農民が住む農人町。商家が並ぶ常盤町。海運会社が並ぶ常盤町。桜並木の堀川。居並ぶマンション。
どんどん変わる、地球の風景。