河中山は高智山〔5311〕2017/10/30
2017年10月30日(月)晴れ
今回の台風は、先週ほどのものではなく、被害も少なかったと聞きます。
ここは今朝、4時の天神橋。鏡川は鏡のように静かな川面で、空には冬の星々。これを見ると、まさに鏡川だ。
この写真を撮る前に、潮江天満宮さんをお参りしてきました。参道は、前回の台風に比べると全然きれいなもの。樹々の枝も折れてなくて、良かった良かった。
昨日、川に挟まれた河中山城と高智山城と、高知のことを書きました。この鏡川のことも。
潮江川。藩政期初期の絵図を見ると、今よりずっと狭い川幅に見える、潮江川。山内一豊が城下町建設する前は、江ノ口川の方が広い川だったとも言われてます。そして潮江川はもっと、蛇行していた。一豊の治水政策の中で、直線化されたんだと思う。蛇行を直線化し、流速を速めて増水せんようにする。そんな政策だ。たぶん。
あと、この南岸の方の堤防を北岸より少し低くして、川は南側に氾濫するようにした。もちろん、北側の城下町を守る為。
まだ与力町に住んでいた頃か、秦泉寺に引っ越していた頃か忘れました。台風による大雨で鏡川が増水。どんどんと増水した鏡川は、いよいよ、鏡川の堤防を越えようとしてました。その場所が、この南の土手だったと記憶します。ニュース映像では、地元の消防の皆さんが必死になって土嚢を積む光景。
北側の城下町も、床下浸水か床上浸水にはなってたと思います。与力町にあった工場も、大変。
でもその浸水は、雨量が排水能力を超えた為で、川が堤防を越えた為ではありません。川が堤防を越え、その勢いで堤防が破れたりすると、それはどんでもない洪水になってしまう。もし洪水になるなら南側だった訳ですね。
そんな訳で、必死の土嚢罪作業が続いてきました。努力の甲斐あって、水量は減り始め、堤防を越波することはありませんでした。
その堤防は、藩政期から、それほど変わっていない堤防。往時の人々の治水に対する技術、努力は、今も我々に恩恵をもたらしてくれてます。
向こうに見える橋は柳原橋。その向こうの北岸は築屋敷。その名の通り、堤防を築いてできた町。あの場所に堤防を築いて家を建てた場合、その土地は堤防を築いた者の所有になる、てな政策で、藩の財政に負担をかけずに実行した治水政策だね。これは有名。
もうひとつ。これは僕の想像政策ですが、この天神橋北詰から東に延びる唐人町も、藩の財政に負担をかけない治水事業だったと思ってます。
藩政期初期、元親が朝鮮の役で連行してきた人々を、その北岸に住まわせる。そして、豆腐製造などの特権を付与。これは、堤防のメンテナンスを、彼らに委ねた、ということだと僕は思うんであります。特権を付与することで、財政に負担をかけない。
こやって眺めただけで、川の直線化、民力による堤防構築、財政に負担をかけない堤防メンテナンス等々、先人の知恵を垣間見ることができる。
河中山は、やはり、高智山だったのだ。