天竺右近花氏と長宗我部国親とプレート運動〔5289〕2017/10/08
2017年10月8日(日)暑い・・・
今日は夏に戻ったかのようなお天気。ちょっと、暑い。昨日から暑い高知県地方。
でも、良かった。昨夜のオープンテラス完成記念バーベキューには、ぼっちりの気候だったと思う。このところ朝晩涼しかったので、日が暮れたら寒くなるんではないかと予想していたのに、暑いくらいの夜。素晴らしい気候条件でした。
若手社員や、それを手伝ってくれたインターンシップの学生さんが奮闘。終了後、輪になって感想を述べあったりしている風景が眩しかった。ああ。とても良い、空気感。
ともあれ、昨日は会社に車を置いて帰ったので、今朝は走って取りにいきました。久々に、家から会社までのRUN。逆はよくあるけどね。
で、暑うございました。ゆっくりじっくりまったり走ったのですが、暑い暑い。お陰で体力消費型の良いRUNとなった。良い日曜日の過ごし方。
今朝は時間があったので、あちこち寄り道しながら走りました。基本、電車通り。これも久々ですね。
電車通りの大津界隈。今から15年くらい前。僕が地元の歴史を学び始めた頃。土佐史談会の事業で、大津地区の史跡探訪に参加したことがあります。それが、最初の地元史跡探訪。ああ。懐かしい。今朝は、あのときに行った場所を確認したりしながら走りました。大津には興味深い歴史がたくさんあります。紀貫之が船出した港があった、大津。
紀貫之の時代、つまり平安の頃は、大津まで浦戸湾が広がっていたのはご承知の通り。国府で過ごした紀貫之は、大津まで陸路をやってきて、船出しました。国府の前には国分川が流れてますが、そこの舟運は使わんかったんですね。
大津の港は、地理院地図で見ると、これの舟戸駅の辺り。ここまでが古浦戸湾だった時代。それ以降、土砂の堆積が進んだり海水面の低下があったりして、陸地となっていきました。
中世。室町時代。細川家が守護として土佐を支配した、土佐の中世。守護代屋敷が、現在の高知空港の北側、田村にあったのはご承知の通り。その細川氏の一族、天竺氏が、大津の山の上に砦を築いて本拠としました。戦国期の武将、天竺右近花氏。応仁の乱の後、土佐での細川家の力は衰えていきましたが、天竺氏は、ここの山を本拠として、頑張っていた。
それを打ち破ったのは、岡豊山に城を構える豪族、長宗我部氏だ。元親の父、国親が土佐に勢力を伸ばし始める、その最初のターゲットとしたのが、天竺氏。
天竺城の跡は、今、立派な城八幡が祀られ、地域で尊崇されてます。長い石段を標高46mまで一気に駆け上がると、ふうふうぜえぜえ。そこに、空堀を備えた立派な城址。そして城八幡。
石段の最上部から写したのが、この写真。向こうの山の上に、白い構築物が見えます。今年、望櫓を仮設置している、岡豊城だ。あそこが、長宗我部国親の、城。あそこから見晴らすと、確かにここ、大津の山に存在する敵対勢力は目障りだ。でも、細川一族。色々と考えたでしょうね、国親も。
最終的には天竺右近花氏を滅ぼし、土佐の覇権への一歩を踏み出したのでありました。
地理院地図では、今、アナグリフが見れます。地形図。地図ではよくわかりませんが、こうやってアナグリフで見ると、プレート運動によってできた山であることが一目瞭然。東西に、並行して山稜がつながってますもん。
少し広域のアナグリフを見ると、この山も、高天原山も、南側の鉢伏山も、その西の五台山も、全部、プレート運動による東西直線的山々であることが理解できます。
そして。
向こうに見える岡豊山。あの山も、見事に東西稜線を形成するプレート運動の山であることが、わかる。
土佐の戦国は、フィリピン海プレートがユーラシアプレートに潜り込む運動によってできた山々で、戦やドラマが繰り広げられたのである。
まあ、それがどうした、という話では、ありますが。