大きいクスノキと小さいクスノキとカナリーヤシ〔5268〕2017/09/17
2017年9月17日(日)台風
今日は高知街ラ・ラ・ラ音楽祭の日。ですが、こないだも書いたように、今年は台風により中止になりました。16回目にして初めての中止の判断、大正解。今日は午後から台風直撃のお天気模様でございます。
この写真を撮影したのは、午後2時過ぎ。この時点ではね、まだね、時折強い雨が降る程度のお天気でした。なので、この写真も傘もささずに撮影してます。
しかし今。午後2時半くらいから突然時化模様になってます。台風、こっち向いて来よりますもんね。気を付けんといけません。被害がないことを祈ります。
で、この写真。
ひろめ市場の前から東の方角を撮影。あるべきものが、ない。そう。今日は日曜日。普段なら、この通りには全長1kmにわたって数百軒の露店が並ぶ日曜市が立っていて、大勢の地元ファンと観光客で賑わうのにね。日曜市も、台風で中止になってしまった。
普段の日曜日には見ることのできない、ガラーンとした追手筋の風景ぜよ。
日曜市は露店なので台風接近で中止になるのは、わかる。ラララも、野外音楽祭なので中止になるのは、わかるよね。でも、今日はひろめ市場も臨時休業なんだって。県外から来られた方々や、雨で行くところが無いなって暇を持て余している高知のおんちゃん達の中には、仕方ないのでひろめで飲もう、と思うた人がかなりの数、居たはずだ。県外からの皆さん、ごめんなさい。ひろめで飲みたかったおんちゃん、今日はおりこうさんで、家で飲んでください。
ところで、今日は街路樹の話。
ここで皆さんに質問です。追手筋の街路樹、なんの樹が植えられているでしょうか?
クスノキ、と答えられた方、半分弱、正解。ソテツと答えられた方、残念。正解をこれから説明します。そこには、皆さんが知らなかった歴史もあるかも知れないよ。
実は、戦後の復興で広げられるまで、追手筋は今よりずっと狭かった。たぶん、今の半分以下の道路幅。広かったのは、追手門の東側、ひろめ市場の前まで。実は、戦前の写真にも、追手門前からひろめ市場の前までは現在のような広い道路で真ん中に街路樹があったことが写ってます。
戦後間もなく、昭和22年10月に米軍が撮影した航空写真が、これ。高解像度表示をどんどん拡大して見てみると、確かに、この場所まで道路が広くて街路樹が見えます。今と同じ場所に、街路樹。
つまりだ。
この写真左端に写っているクスノキの巨木。これは、戦前からずうっと街路樹として植わっていたものだということが、わかる。でかいですもんね。
ここから向こうは、昭和22年の時点ではずっと狭い道路であることも、わかる。昭和37年の航空写真で、やっと、今の広さの追手筋ができています。街路樹も植えられているけど、まだまだ小さい。
今日の写真をごらん頂こう。
信号の向こうに追手前高校の時計台。右手に、来年開館予定の巨大図書館。そこは、僕らが通うた追手前小学校だった。追手前小学校と追手前高校に挟まれた道路の街路樹も、クスノキ。でも、よく見ると、こちら側のクスノキより随分と小さい。そう。戦後、しばらくたって追手筋が拡張されてから植えられたのが、そのクスノキ。
僕らが小学生の頃、校舎の廊下からいつも写生していた追手筋の街路樹は、まだ小さいクスノキだったんだ。当時の写生画、残っちょらんでしょうかね。まだとても小さいクスノキが描かれているはずです。
本題に戻りましょう。
中の橋通りから東側の追手筋。その中央分離帯には、クスノキではなくてカナリーヤシ。もちろんこれも、戦後かなり経ってから植えられたもの。今はかなり巨大なカナリーヤシになりました。
ね。
普段、どんな樹木が街路樹になっているのか、あまり気にして無いことがわかります。そして、ひろめ市場の前のクスノキと、追手前高校前のクスノキの大きさが全然違うことの意味。ご理解頂けたでしょうか。
さて。追手門からひろめ前までの広い道路。これは、いつから広いのか。藩政期初期、17世紀中頃に描かれた絵図でも、広く描かれてます。そう。400年前からそこは広かった。追手門前の広場だった。
その広場が、明治以降に街路樹のある道路となった。
戦後復興で、その広い道路幅に合わせて、今の新しい追手筋がつくられることに、なった。
400年前からの文脈の中に、今の追手筋の道路幅があり、そこで毎週日曜市が開催されるようになったのでありました。