大橋通りの風景、公設〔5257〕2017/09/06
2017年9月6日(水)晴れ!
昨日の雨もあがり、良いお天気。
ここは今朝、7時前の大橋通り。生鮮食品のお店が多い大橋通りは、早朝から、お店の準備が始まってます。大橋通り商店街。
ここからまっすぐ南へ行くと天神橋があるので、大橋通り。僕らが子供の頃、まぎれもなく、ここが高知の台所だった。まだスーパーマーケットというのがほとんど無かった。高知で最初にできたスーパーマーケットは、高知一の食品市場、大橋通り、つまり、この写真の左手に建てられたのでありました。
では、ここが高知の台所になったのはいつからなのか。
元々、お城から近い郭中であるこの場所は、土佐藩士の中でも身分がとても高い人たちの大きなお屋敷が並ぶエリアだった。そして役所もあった。
写真は、大橋通りの西の入り口から東向いて撮影したものですが、丁度この場所には藩の役所「南会所」がありました。武市半平太が入牢していた南会所。
そんな場所なので、明治の世になっても、その広い区画を利用した公的施設や学校、病院などが並ぶ地区となったのは、ご承知の通り。
そんなこんなのこの場所に、大正七年(1918年)、公設の市場が設けられたのでありました。今年で99年、来年で100年。その公設市場には、高知中の生鮮食品が集まり、人々はそこへ買い物に来るようになる。人の流れが変わった。劇的に、変わったきっかけは、公設市場。
それまでの高知の台所は、ずっと東、種先町とか魚の棚とか。で、ずっと離れた西端のここに公設市場ができ、生鮮食品を求める庶民が、街の東へ西へと歩き始めたのでありますね。そして、やはり公的施設や病院などが多かった帯屋町を買い物客が歩くようになり、徐々に商店街を形成していったのかも知れません。
その最初のきっかけになったのが、ここに大正七年にできた公設市場。
その痕跡が、この写真右端に写ってます。お米屋さん。「公設 石元」。「公設」だ。
この右側の建物は、僕が高校生の頃に建ったビル。一つのビルに、たくさんの店舗と、その上の住居が入ってます。そのビルができる以前は木造二階建ての一続きの建物で、一回が店舗で二階が住居。長屋のようになったその建物を、まさしく、公設と呼んでましたね。
母の実家があったので、学校の帰りとか、しょっちゅう立ち寄って遊んでいた、あの建物。
今も高知の台所であることには変わりはないですが、人々の買い物スタイル、ライフスタイルが変化して、随分と変わってきました。
このすぐ北にはひろめ市場。大橋通りにも、飲食関係の店が増えたかな。あと、唐揚げ屋さんが増えました。聞くところによると、ここは今や唐揚げ激選区なんだそう。なるほどね。
南会所から公的施設、そして公設市場で指紋の台所。
今は、観光客さんも、この界隈をたくさん歩くようになりました。
変わらないのが、この左手の松岡のかまぼこ。本当に、売り方も何も変わらない。
向こうの角の手前にある魚屋さん「楠長」さんは、僕らが子供の頃、あの店の前で斗缶の藁を入れ、フォークの大きいのみたいな道具でカツオのたたきを焼いてました。路上でね。今はたぶん、消防法かなんかが難しくなってやってないと思いますが。
大橋通りを見ていると、時代の流れを実感できます。変わるもの、変わらないもの。
これからも街の姿は変わっていくでしょう。たぶん、劇的にね。
僕らは、その時代の流れに乗って、その時代時代を生きていく。