品川の板垣退助とヒゲジイさん〔5215〕2017/07/26
2017年7月26日(水)小雨
で、今朝は東京。昨日、午前中の飛行機でやって来ました。業界の会合と、お客様訪問。このところ、ちょっと多めの東京出張。それにしても、昨日は暑かった。
夜、ホテルへ帰ってきたら汗ビッショリ。汗グッショリ。ベシャベシャ。グショグショ。東京の暑さははまた、格別だ。
今朝も、5時に起き出して早朝ラン。
京急線の新馬場駅近くに泊まってましたので、品川界隈をたつくってきました。今日は水曜日で、築地もお休み。それでなくても築地RUNは、今の季節は厳しい。築地まで走って築地メシを食べ、ホテルへ電車で帰るというパターンは、今は無理。滝のように汗をかいて、電車には乗れませんきに。僕は良くてもね。他のお客さんがね。臭いですね。とても。
で、品川ラン。
品川は、実に面白い。旧東海道界隈が、特に面白い。目黒川を中心にして北側が北品川、南が南品川。古地図と見比べていくと、往時の海岸線や、宿場の様子が今はどうっているのかわかって、ブラタモリ的に楽しい。品川、ブラタモリでやってないのか調べてみたら、やってました。それも第9回。2009年。そりゃあそうだ。地形と昔の町が、今につながって痕跡だらけの品川。やってない訳が、ない。
しかも、案内人は陣内秀信先生ではないか。僕が地形と都市計画にはまるきっかけをつくってくれた、陣内秀信先生ご案内の品川。
僕も、陣内先生に案内してもらいたいぞよ。羨ましい。
それはともかく。立会川の山内家下屋敷跡やら、目黒川蛇行の痕跡やらを探しながら戻ってきました新馬場。しんばんば。
旧東海道沿いではなく、京急線の西、第一京浜国道沿いに鎮座ましますのが、品川神社。その縁起は頼朝の時代にさかのぼるという古い神社は、徳川時代にも大切に大切に尊崇されてきました。
今は珍しくなった富士塚があり、以前、そのてっぺんからの風景をご紹介したことも、ある。今思うと、あの玄武岩と言いますか、溶岩が固まった岩石を、どっからは運んできたんでしょうね。
それはともかくこの写真。
その品川神社の本殿脇を通り抜けると、西側の平野を見晴らす場所に、墓所。板垣退助さんのお墓が、そこにあります。写真が、その墓所。
高知市の薊野にも乾家の墓所、ありますよね。2015年8月23日のにっこりにてご紹介してます。
でも、埋葬されたのは、ここ、品川の墓所でしょうな。亡くなったのはこっちでしょうきに。
ここは、容堂公の墓所とも近い。そんな縁なんでしょうね。
僕らの世代、板垣退助というの百円札で、立派なヒゲのおじさんというイメージやと思います。板垣退助というと白いヤギヒゲのおじいさん。
今の若い人たちはどうなんだろうね。最近、板垣退助というと、若い頃の男前の写真をよく見るので、そんなイメージを持っているのかも知れません。自由民権運動で活躍していた頃の風貌は、こっちでしょう。
百円札が無いなって、あのヒゲのおじいさんを見る機会も減りました。
現代の若者が、どっちの写真を板垣退助とイメージするのか、調べてみたい。僕らの世代は間違いなくヒゲジイさん。