磐座と岩倉と輪抜け様〔5175〕2017/06/16
2017年6月16日(金)晴れ!
夏空。梅雨前線はまだとっと南にあって、良いお天気の週末になりそう。
ここは今朝の潮江天満宮。本殿裏手の小山の上。ここには、大山祇神社さんと、磐座。磐座と書いて「いわくら」と読む。
ここに大山祇神社が勧請されてきた経緯についての考察は、以前にやりました。僕の想像では、ここに大山祇神社が勧請されてきたのは明治になってから。たぶん、そう。そこで問題になるのが、この磐座。この小山の上に鎮座まします巨岩は、太古の昔からここに存在してきた巨岩だと思います。南嶺に多いチャートでしょうか。
日本では、古来、アニミズムの延長線上で岩に対する信仰が繰り広げられてきた。神が、天から降りてくる岩。そこで祭祀が行われ、神に祈った。巨岩信仰は地球上の多くの地域に存在する。ここ日本も例外でなく、また、日本では今も大切にされている、磐座。
磐座は磐倉であり、岩倉。
明治維新で活躍した岩倉具視の岩倉は、村上源氏である岩倉家の所領が岩倉村にあったことに始まる。岩倉村は現在の京都市左京区岩倉で、宝ヶ池とか京都国際会議場があるのも岩倉だ。
何故そこが岩倉村になったかと言えば、そこに鎮座まします山住神社のご神体が巨岩の磐座であり、岩座大明神と呼ばれていたから。
岩倉具視の岩倉も、もとを辿れば磐座だ。
ん?山住神社?
山住神社は山祇神社だ。巨岩の磐座がご神体の山祇神社。大自然の神様である山祇神は、巨岩信仰と密接に結びつきます。
高知でも、鉢伏山の山頂に大山祇神社が鎮座ましますが、その建物は巨岩に差しかけるように建てられ、磐座がご神体。
この潮江天満宮の磐座は、いつの頃から磐座だったのだろうか。少なくとも、潮江天満宮で代々宮司さんをつとめてきた宮地家では、この磐座を尊崇してきたでしょう。そして、その磐座の横に、大山祇神社。
磐座の山から、東の方向を撮影。向こうの樹々のそのまた向こうに真っ赤な朝日。眼下には潮江天満宮の本殿、拝殿。
6月の潮江天満宮と言えば、輪抜け様だ。毎年6月30日。夏越しの祭り、輪抜け様。高知の神社の夏祭りでは、一番人出が多い、輪抜け様。
子供の頃、僕の家はここから近い与力町。輪抜け様は楽しい楽しいお祭りで、家の前を、うさぎさん風船を持ち、ウルトラマンのお面をかぶった家族連れがひっきりなしに通っていくのが楽しかった。
与力町に本社があった頃の、会社の氏神様は潮江天満宮。
本社が南国に移ってからの氏神様は、上岡八幡宮。
氏神様を大切にする、ということは、地域を大切にする、ということ。お祭りのときだけでなく、普段から氏神様をお参りしていると、そこは、たくさんの地元の方々によって守られている、美しく維持されている、ということがよくわかります。
企業というのは、地域とともに、存在します。地域の皆さんに大切にされなくてはならない。それには、企業も、地域を大切に大切にしなくてはなりません。
氏神様は、そんな、地元、地域の象徴。神様とか宗教とか信仰とかには関係なく、大切な大切な地域の象徴。これからも大切にしていきたいし、いかなくてはならない。
でもね。
この磐座のような場所へ来ると、大自然の、偉大なサムシンググレートを感じるのは、人間の本能だと思います。