宝永町の紫陽花と、渕〔5162〕2017/06/03
2017年6月3日(土)良いお天気
6月になりましたが、良いお天気は続く。でも、もう、紫陽花の季節。あちこちで紫陽花の花を見かけるようになった、今日この頃。
そう言えば、このにっこりでも、昔はよく植物のことも書いてました。歴史ネタばかりだと、ネタも尽きるので。
街や山、走っていて目につくのは、やはり花ですきんね。紫陽花が、酸性の土壌だと青くなって弱アルカリ性だとピンクになる、くらいの知識は、そうやって花を紹介していた頃に、習得しました。
紫陽花の向こうにはタチアオイ。立葵。今の季節、目立ちますよね、あちこちで。初めてこの花をご紹介したのは今から12年前。2005年6月25日のこと。旧鏡村の役場の近くで、撮影した立葵。あの場所が高知市になったのは、あの年の1月のこと。まだ、高知市になったばかしの旧鏡村に咲く立葵。
立葵の向こうに隠れているのがランタナだ。七変化。この花も、あちこち色んなところに咲いてます。そんなこんなの、道端に咲いているような花は、少しはわかるようになってました。当時はね。最近花のこと書いてないので、忘れてしまったものも多いですが。
この写真は、今朝、宝永町で、空港連絡バスに乗るのを待っている間に撮影しました。そう。昨日は家まで走って帰ったので、今朝は空港バス出勤。5:58宝永町発の空港バスを待つ時間。まだ電車は動いていない、静かな静かな電車通り。
で、ここ数年、地形や地質と歴史のことについて書くことが多くなりましたよね。これは、間違いなく、数年前に偶然購入してバイブルになった「東京の空間人類学」という本の影響。陣内秀信先生の、かなり以前に書かれた本ですが、地形と都市の関係を見事に喝破された、すごい本。
東京の、あのうねった地形と江戸初期の都市計画、そしてその文脈が今に繋がるという話は、ショックでした。
東京という街は、更新世段丘を多摩川は大小様々な河川が開削し、その丘と谷の地形につくられた都し。それも、かなりの都市計画に基づいて。世界的に見ても特殊な都市であることを、その本で知りました。
では高知の城下は。
そんな、更新世の段丘はありません。紀貫之の頃は、現在の城下町は古浦戸湾の底だったもんで。なので、そんな起伏は、残ってない。また、戦争で全部焼けた街なので、昔の建物や面影も、残っていない。そんなのっぺり高知の城下町。
でもね、自分の足で走ったり調べたりしていると、高知の城下町建設の思想やら、自然地形の利用やらの姿が見えてくることが、あります。東京みたいにダイナミックではないですけどね。
ここ、宝永町は、城下町の東の塩田を整備してつくられた新しい土地と、その東の塩田との境の土地。堤を築き、海水が、城下の方へと入って来ないようにした。その堤は宝永南海地震で崩壊し、新しく作られた堤が宝永堤と呼ばれ、そして今は宝永町。
そんな歴史が、町名だけに、残る。
山内氏入国前。この宝永町の南の方は、浦戸湾が入り込んだ土地で、長宗我部の興亡を描いた「土佐物語」には「知寄などいふ底もなき渕なれば、たやすく埋草も及ぶ所にあらず・・」と書かれた場所。
そう。そんな、浦戸湾が切れ込んで渕になっていたような土地。その切れ込みを見て、城下の物資輸送に利用することを考え、切れ込みを利用して、堀川を開削した。それが今に至る堀川。
それが真実かも知れません。知らんけど。単なる妄想です。
でもね、都市というのは、必ず、地形の文脈の中に、あるのです。