秦泉寺城址、夢の跡〔5149〕2017/05/21
2017年5月21日(日)晴れ!
今日は、工場で、ミーティングなどがあるので、朝のうちに走ってきました。家から高知市北部、そして街中を抜けて鏡川へ。
ここは秦泉寺城址。
秦泉寺には、中学校高校の5年間と、社会人になって10年ばかし住んでいたのに、なんと、秦泉寺城址を訪れたのは今朝が初めて。なんという怠慢。なんという迂闊さ。
意外に、近所の史跡とかには行かんもんだ、ということがこれでよく判る。秦泉寺城は、中世から戦国にかけての土佐でも、重要な役割を果たした城だ。しかし、戦国後期の天正十六年(1588年)には既に「荒城」となっていた、という文献もある。
場所は、中秦泉寺の交差点から北へ、正蓮寺の方へと上っていく県道の、右手。昔、桜ヶ丘ボウルというボウリング場がありましたよね。そこへの入り口を過ぎてすぐの右手。標高102mの山が、四国山地の山裾斜面から屹立してます。そのてっぺんにあったのが、秦泉寺城。
久々に桜ヶ丘ボウルの跡地に行ってみたけど、住宅地になっちょって、面影まったく残っちょりませんでした。
それはともかく秦泉寺城。
その歴史は、古い。土佐中世の城郭の中でも、かなり古くからの城として存在してきたと言う。しかも城主は名門だ。源氏。それも、かなり本家に近い。
最初に秦泉寺城を築いたのは、吉松播磨守光義という人物とされる。鎌倉時代のこと。
この男の父は源義久。その父は源頼賢で、為朝の四男。つまり、義朝や義賢の弟にして為朝の兄。
つまり、父の義久は、頼朝や義経、木曽義仲などと従兄弟になる。これはもう、源氏の中の源氏と言えよう。そうそう、土佐にやってきた源希義とも従兄弟になる。そんな父、源義久が、1183年に平教経と戦った功績で、息子が秦泉寺の領主に任命されたのだとか。任命したのは、源頼朝。
ああ。ややこしい。ついてきてますか?
そもそも。何故、土佐の国の秦泉寺が、源氏の若者に与えられたのか、わからん。
土佐で、頼朝の弟、希義が討たれたのが1180年。1183年に、頼朝により、頼朝の従兄弟の子が、土佐の秦泉寺の領主とされる。関係はあるのだろうか。源氏政権と土佐は、意外に関係が深かったのかも知れない。
その1183年は、木曽義仲が平家を破って京へ入る年。しかし翌年には義経が、義仲に取って代わる。皆んな、秦泉寺城を築いた人物の従兄弟たちだ。
土佐には、木曽義仲の有力家臣にして弓の名人、今井兼光さんにまつわる伝説も、ある。幾度かご紹介した、鏡川上流針原の、兼光地蔵さんの伝説。そして、その地に今も残る今井さん。
結構、中世土佐の源氏の痕跡、残っちゅうかも知れない。
で、秦泉寺城。
吉松氏を名乗った頼朝の従兄弟の息子、光義を祖とする城主は、本山氏の配下に入るも、1560年に長宗我部元親に降伏。秦泉寺城には、元親の家臣、中島大和が入城して秦泉寺大和と名乗るようになる。
その後、中島大和は元親の怒りに触れて滅ぼされ、秦泉寺城は放棄されて荒城に。
それから幾星霜。
写真は、鬱蒼とした木々に囲まれた秦泉寺城、詰の段。この城山、登ってみると、空堀などの遺構も残り、詰の段は少し広くならされていて、往時の面影を伝えてくれる。
鬱蒼とした樹々の中に静かないたたずむ城八幡。
兵どもの夢の跡。