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天満宮と良寛〔5134〕2017/05/06

天満宮と良寛

2017年5月6日(土)曇り

大型連休は明日まで。という方も多いでしょうが、僕は、今日はお仕事。で、毎月第一土曜、第三土曜、第五土曜の朝は、工場近辺の清掃になってます。
これはとても気持ちが良い。近所の方々も労いの声をかけてくれますし、何より、やってて気分が良いのでありますね。もっともっと、気分が良くなることをしたいと思う、今日この頃。

さて。そんな訳で、写真は、今朝4時前、出勤前の潮江天満宮。右手に手水舍。手前の鳥居は、得月楼楼主、松岡虎八翁の御寄進。そして、向こうの暗がりの中に楼門が浮かび上がる。
潮江天満宮は、元々、もう少し東、現在の真如寺の境内にあったと言う。山内一豊が土佐へ入国した際、前任地の遠州掛川で参禅していた真如寺の在川和尚を連れてきて開山させたのが、真乗寺。二代藩主忠義公のとき、真如寺と改名。そのお寺さんを建てるため、そこにあった天満宮を、少し西へと遷座、今の場所に本殿を立てたと言います。

幕末の嘉永年間に、社殿を新築したと言いますが、昭和3年の火災で焼失し、今は、あの、楼門だけが嘉永の頃の建築物として残るばかり。

天満宮と言えば、昨日走って行った、領石のお宮さんも天満宮。菅原道眞公をお祀りする、地域の産土神。当地の説明板には書いてませんでしたが、手元の、平凡社発行「高知県の地名」には、蜷川道標の勧請と伝える、と書いてます。おう。蜷川道標。長宗我部元親の家臣ではないか。かなり上手に時代を生き延びた人物、蜷川道標。
元々は足利将軍家に仕える家柄。室町幕府13代将軍足利義輝が三好三人衆に殺されると、所領を没収されて行き場を失う。
妻が、元親の妻と姉妹であった誼みで、土佐へやって来て元親に仕えることになった、道標。
中央との関係を重視する元親にとって、礼法に詳しく連歌の達人であった道標は、有用な家臣であったでしょう。

元親が四国制覇戦に邁進した頃、領石は、その軍事道路の通り道。そこに、蜷川道標が天神様を勧請してきたのでしょうか。詳しいことは、わからない。

道標は、関ヶ原敗戦で改易となった長宗我部家の残務処理や残党鎮圧に巧く働き、その功績で、徳川家康の旗本になってしまうんだね。京の事情に詳しいのが、家康に取っても魅力であったのか。まあ、数奇にして良い人生だ。蜷川道標。

その道標が勧請してきたという、領石天満宮。
土佐から陸路で瀬戸内へ抜ける街道沿いのお宮さんとして、また、地域の産土神として、栄えてきたでしょうか。
文化二年(1815年)「南路志」に「天満天神社岡屋敷祭九月二十五日・僧壱人・社地三十代」などとあって、僧が一人、そこに暮らしていたことが、わかる。なるほど。

昨日のにっこりで、土佐を旅した国学者、近藤万丈さんが、あの界隈の山麓の庵に泊めてもらい、その庵に一人暮らす僧侶が良寛であった、という文章を残している、と、書きました。
その時期は、寛政六年(1784年)頃。

文化二年に天満宮で暮らしていた僧侶とは別人であることは、これで判りました。
しかし、寛政六年頃には、ひょっとしたら、良寛は領石の天満宮で一人暮らしていたのかも知れない、などという妄想は、間違っているという証拠も、ありません。

朝っぱらから、誰も、確かめようもない、魅力的な妄想。


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