あれから6年〔5078〕2017/03/11
2017年3月11日(土)快晴!
あれから、6年。あの日のことは、昨日のことのように、覚えています。
2011年3月11日の朝は、自転車で南国の会社へ出勤途中、高須の田んぼに張られる水をご紹介しました。あの日が、あんなことになるとは夢にも思わず。
それから6年。僕らは、何ができて、何ができていないのだろうか。
今朝、車でラジオを聴いてましたら、落合恵子さんが、「3月11日を記念日にしてはいけない。3月11日は、命とは何なのか、を考える日にしよう。」とおっしゃっておられました。良い言葉です。
写真は、今朝、南国市の琴平山から撮影した海岸と太平洋。静かに美しい風景。この静かな風景が、近い将来、地震と津波に襲われた風景になるのは、間違いないこと。
この琴平山の琴平神社は、海の神様ですが、地震ともとても関係が深いお宮さん。
元々は、黒田郡にあった、と言います。高知大学海洋コア研究所の若手研究者さんたちも真面目に調査されている、黒田郡。西暦684年の白鵬大地震で、広大な農地や集落が太平洋に没してしまった、という伝説の、黒田郡。
その黒田郡に「トッコウの峰」という山があって、そこに黒崎宮というお宮さんがあった、ということ。その周囲には村もあったが、白鳳の大地震で、海に沈んでしまった。その際、海から琴平山に金色の御幣が飛んできたので、その御幣を祀って金比羅さまと呼ぶようになった、という伝説。
という訳で、津波に関係の深い琴平神社ですが、ここにある玉垣も、とても重要。
安政5年(1858年)3月、つまり、安政南海地震から3年4ヶ月後に、夜須町の住民によってご寄進された玉垣。そこには、安政南海地震津波の様子が、詳しく刻まれて、いる。後世への戒め、ということで、先人によって遺された、大切な記録。
大災害から3年が経ち、ようやく、そんな記録を残していこう、という落ち着きが見られるようになった訳でしょうか。
宇佐の萩谷口にある地震の供養塔も、大津波から丁度3年目に、建てられています。
東日本大震災から、6年。
安政の大地震と比べて、復興の進む具合はどうなのか。事情がかなり、当時とは違う。地方では、高齢化や人口減少が急激に進んでいる。そんな社会構造激変の地方都市を襲った大災害は、都市への人口移動に拍車をかけてしまい、故郷はなかなか元には戻らない。
そして原発。
かつての大地震や津波にはなかった、原発事故。その影響の計り知れなさを見ると、人類の浅はかさを感じてしまう。感じてしまわない人の、浅はかさがより一層、身に堪える。
6年経過しても、まだ、全然、復興の気配すらない地域がある、ということに対して、国は、我々は、どのように向き合わなければならないのか。
3年経って、落ち着きをみせる安政南海地震後の風景と、6年後のこの、風景。
そして、必ず、この美しくも静かな風景を襲う、次の南海地震。大自然と、どう向き合い、折り合いをつけていくのかが人類の定めとすれば、せめて、人災は避けたい、と、思う。